ねらせて並んで出ている夜店が、縁日らしいくだけた感じを与えた。込み合う雑沓の人々も、角袖《かくそで》の外套《がいとう》や手柄《てがら》をかけた日本髷《にほんまげ》や下町風の男女が、目立って交っていた。
 人混を縫って歩きながら夜店の側に立ち止ったり、青年の進み方は不規則で乱調子になって来た。そして銀座の散歩も、もう歩き足り、見物し足りた気怠《けだ》るさを、落した肩と引きずる靴の足元に見せはじめた。けれども青年はもっと散歩の興味を続け、又は、より以上の興味を求め度いらしく、ズボンのポケットへ突込んだ両手で上着をぐっとこね上げ、粗暴で悠々した態度で、街を漁《あさ》り進んだ。
 歩き方が乱調子になって来た青年の姿を見失うまいとして、かの女は嫌でも青年に近く随いて歩かねばならなかった。そして人だかりのしている夜店は意地になっても見落すまいとして、行き過ぎたのを小戻りさえする青年の近くにうろうろする洋装で童顔のかの女が、青年にだんだん意識されて来た。青年は行人を顧みるような素振りを装いながら、かの女の人柄や風態を見計うことを度々繰り返すようになった。
 離れて彼女を援護して行く逸作の方が、先に青年の企《たくら》みある行動を気取って、おかしいなと思った。しかし、かの女はすっかり青年の擬装の態度に欺かれて、人事のようにすましてただ立ち止っていた。たまたま閃《ひらめ》きかける青年の眼差《まなざ》しに自分の眼がぶつかると、見つけられてはならないと、あわてて後方へ歩き返した。
 青年のまともの顔が見られる度に、かの女は一剥《ひとは》ぎずつ夢を剥がれて行った。それはむす子とは全然面影の型の違った美青年だった。蒸気《むしけ》の陽気に暑がって阿弥陀《あみだ》冠《かぶ》りに抜き上げた帽子の高庇《たかびさし》の下から、青年の丸い広い額が現われ出すと、むす子に似た高い顎骨《あごぼね》も、やや削げた頬肉《ほおにく》も、つんもりした細く丸い顎も、忽《たちま》ち額の下へかっちり纏《まとま》ってしまって、セントヘレナのナポレオンを蕾《つぼみ》にしたような駿敏《しゅんびん》な顔になった。張って青味のさした両眼に、ムリロの描いた少女のような色っぽい露が溜《たま》っていた。今は唇さえ熱く赤々と感じられて来た。
「なんという間違いをしたものだろう」
 むす子に対する憧れが突然思いもかけぬ胸の中の別の個所から厳粛というほどの真率さでもって突き上げてきた。そしてその感情と、この眼の前の媚《なまめ》かしい青年に対する感覚だけの快さとが心の中に触れ合うと、まるで神経が感電したようにじりり[#「じりり」に傍点]と震え痺《しび》れ、石灰の中へ投げ飛ばされたような、白く爛《ただ》れた自己嫌悪に陥った。
 かの女は目も眩《くら》むほど不快の気持に堪えて歩いて行くと、やがて二つの感情はどうやら、おのおのの持場持場に納まり、沖の遠鳴りのような、ただうら悲しい、なつかしい遣瀬《やるせ》なさが、再びかの女を宙の夢に浮かして群衆の中を歩かした。
 ぱらぱらと雨が降り出して来た。町角の街頭画家は脚立をしまいかけていた。いや、雨気はもっと前から落ちて居たのかも知れない。用意のいい夜店はかなり店をしまって、往来の人もまばらに急ぎ足になっていた。
 灯という灯はどれも白蝋《はくろう》のヴェールをかけ、ネオンの色明りは遠い空でにじみ流れていた。
 今度は青年の方から距離を調子取って行くので、かの女は青年にはぐれもせず、濡《ぬ》れて電車線路の強く光る尾張町を再び渡った。
 慾も得もない。ただ、寂しい気持に取り残され度くない。ただそれだけの熱情にひかれて、かの女は青年のあとについて行った。後姿だけを、むす子と思いなつかしんで行くことだ。美青年に用はない。
 新橋際まで来て、そこの電車路を西側に渡った。かの女は殆《ほとん》どびしょ濡《ぬ》れに近くなりながら、急に逸作の方を振り向くと、いつもの通り少しも動ぜぬ足どりで、雨のなかを自分のあとから従《つ》いて来る。その端麗な顔立ちが、雨にうっすりと濡れ、街の火に光って一層引締って見える。彼女は非常な我儘《わがまま》をしたあとのような済まない気持になりながら、ペーヴメントの角に靴の踵《かかと》を立てて、逸作の近づいて来るのを待つつもりでいると、もう行き過ぎて見えなくなったと思った青年が、角の建物の陰から出て来てかの女にそっと立ち寄って来た。そして不手際にいった。
「僕に御用でしたら、どこかで御話伺いましょう」
 かの女は呆《あき》れて眼を見張った。まだ子供子供している青年の可愛気《かわいげ》な顔を見た。青年は伏目になって、しかし、意地強い恥しげな微笑を洩《もら》した。かの女は何と云い返そうかと、息を詰めた途端に、急に得体も知れない怯《おび》えが来た。
 かの女は「パパ!」と
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