のせず、畳んだナフキンの上にじかに置いてあった。それが却《かえ》ってうまそうに見えた。
 かの女はときどき眼を挙げて、花を距《へだ》てたむす子の顔を見た。ギャルソンに註文を誂《あつら》えた後のむす子は画家らしい虚心で、批評的の眼差《まなざ》しで、柱の柱頭に近いところに描いてある新古典派風の絵を見上げていた。鳶色に薄桃色をさした小づくりの顔は、内部の逞《たくま》しい若い生命に火照《ほて》ってあたたかく潤っていた。情熱を大事に蔵《しま》ってでもいるように、またむす子は、両手を上着のポケットに揃《そろ》えて差し込んでいた。
 新古典派風の絵のある柱の根で、角を劃切られたこの靠れ壁は、少し永く落着く定連客が占めるのを好む場席であった。隅近くではあったが、それだけ中央の喧騒《けんそう》から遠去かり、別世界の感があった。中央の喧騒を批評的に見渡して自分たちの場席を顧みると、頼母《たのも》しい寂しい孤独感に捉えられた。
 かの女は、むす子が眼をやっている間近の柱の絵を見上げて、それから無意識的にその次の柱、また次の柱と、喧騒の群の上に抽《ぬき》んでて近くシャンデリヤに照らされている柱の上部の絵を、眼の届くまで眺めて行った。その絵はまちまちの画風であった。女が描いたように描いた表現派風の絵もあった。ここへ来る古い定連の画家に頼んで勝手に描いて貰ったこれ等の絵は、統一もなく、巧《うま》いのも拙《つたな》いのもあった。かの女はむす子に案内されて画商街へモダンの画を見に通った幾日かを思い起した。それらは、むす子が素性のいい恋人と逢うのに立ち会うように楽しかった。
 かの女の眼が引返してむす子に戻り、今更しみじみ不思議な世界でわが子と会った気持になっていると、かの女はむす子の育った大人らしさを急に掻き乱し度《た》くなる衝動に駆られた。
「よして頂戴《ちょうだい》よ、大人になってさ。お願いだから、もとの子供になりなさいよ」
 かの女は胸でこう云って無精にむす子に手をかけ度い気持を堪えていると、一種の甘い寂しい憎しみが起る。むす子の上ポケットの鳶色のハンケチにかの女の眼が注がれる。「まあ、なんというお巧者な子だろう。憎らしい。忘れないでハンケチなど詰めて」ふと気がつくと、むす子もいつか絵を見ていた眼を空虚にして、心で何か噛《か》み躙《にじ》っているらしい。
 かの女の眼とむす子の眼とが、瞠合《みあ》った。二人は悲しもうか笑おうかの境まで眼を瞠合ったまま感情に引きずられて行ったが、つい笑って仕舞った。二人は激しく笑った。
「どうして笑うのよ」
「おかあさん、どうして笑うんです」
「あんたがいつか言ったこと想《おも》い出したからよ」
「どんなことです」
「あんた、いつか、こういったわね。僕、おかあさんにそっくりな小さい妹を一人得られたら、ぐいぐい引張り廻して僕の思う通りにリードしてやるって、あれをよ」
「ふんそんなことか。けど僕やめにしますよ。なにしろ、おかあさんという人はスローモーションで、どうにも振り廻しにくいですからねえ」
 むす子は唇をちょっと噛んで、面白そうに、かの女を額越しにちょっと見た。
「ついでにおかあさんに云っときますがね、いくら僕が寂しかろうといって、むやみに、お嫁さんの候補者なんか送りつけたりするのはご免《めん》蒙《こうむ》りますよ。やり兼ねないからね。いくらお母さんの世話でも、全くこれだけは断りますよ」それからはじめて手を出して卓の上へ組み合せて、
「僕、おかあさんに対する感情の負担だけでも当分一人前はたっぷりあるのだからなあ」むす子は言葉尻《ことばじり》を独り言のようにいってのけた。
 むす子が面と向ってこういう真実の述懐を吐くとき、かの女には却ってむす子から、形の上の子供子供した点だけが強く印象づけられた。
「そんなに、おかあさんの方ばかり気にしないで、ご自分が幸福《しあわせ》になるよう、しっかりなさいよ。ほんとうですよ」
 こういって、はじめてかの女は母親の位を取り戻した。
 ギャルソンがスープを運んで来た。星がうるんで見える初夏の夕空のような浅い浅黄色の汁の上へギャルソンはパラパラと焦したパン片を匙《さじ》で撒《ま》いて行った。
「香ばしくておいしい。掻餅《かきもち》のようね」とかの女はいった。
 むす子はかの女の喰《た》べ方を監督しながら自分も喰べていった。
「パパ、今晩は、トレ・コンタンでしょう。支那めしが喰べられて」
「久し振りに日本の方と会って大いに談じてますよ」
「パパもいいが独逸《ドイツ》の話だけはして呉《く》れないといいなあ、ベルリンのことを平気でペルリン、ペルリンというんだもの、傍で気がさしちまう」
「おなかじゃベルリンと承知してて、あれ口先だけの癖よ」
 母子は逸作への愛に盛り上って愉快に笑った。
 かの女と
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