無造作な立ち上り方をして拍手した。
 靠れ壁の隅に無精らしく曲げた背中をもたせて笑ってばかり居る若い娘と、立ち上った群の中に、もう一人長身の若い娘が、お出額《でこ》の捲髪《カール》を光線の中に振り上げ振り上げ、智慧《ちえ》のない恰好《かっこう》で夢中に拍手しているのを、かの女は第一にはっきり見て取った。かの女はちょっと彼等に微笑しながら目礼したけれど、妙な一種の怯《おび》えが、むす子を彼等から保護するような態度を、かの女にさせた。かの女は思わず息子の身近くに寄り添った。そのくせかの女はまたすぐあとから、彼等に好感を覚えてのろのろと彼等の方を見返した。
「おかあさん、何してるんです、どうせあいつら、あとで僕たちの席へ遊びに来ますよ」
「あんた、とても、大胆ね、こんな人中で、よく平気であんな冗談云えるのね」
 そういいながら、かの女は却《かえ》って頼母《たのも》しそうにむす子の顔をつくづく瞠入《みい》った。
 むす子のこんなことすら頼母しがるお嬢さん育ちの甘味の去らない母親を、むす子はふだんいじらしいとは思いながら、一層|歯痒《はが》ゆがっていた。自分達は、もっと世間に対して積極的な平気にならなければならない。
「また癖が」、むす子はかの女の自分に感心するいつもの眼色を不快そうに外ずして向うをむきながら、かの女の手をぐっと握り取った。
「怯えなくとも好い……何でもないです。誰でも同じ人間です」
「すると、あの中の女たちは、やっぱり遊び女」
「遊び女もいますし、芸術家もいます。中には、ひどい悪党もいます」
 むす子は母親の眼の前に現実を突きつけるように意地悪く云い放ちながら、握った手では母親の怯えの脉《みゃく》をみていた。かの女には独りで異国に残るむす子の悲壮な覚悟が伝わって来て身慄《みぶる》いが出た。かの女は自分に勇気をつけるように、進んでむす子の腕を組みかけながらいった。
「ほんとに誰でも同じ人間ね。さあみんなと遊ぼう」
 この夜は謝肉祭の前夜なので、一層込んでいた。人々に見られながらテーブルの間の通路を、母子は部屋中歩き廻《まわ》った。
 通り過ぎる左右の靠《もた》れ壁《かべ》から、むす子に目礼するものや、声をかけるものがかなりあった。美髯《びぜん》を貯え、ネクタイピンを閃《ひらめ》かした老年の紳士が立ち上って来て礼儀正しく、むす子に低声で何か真面目《まじめ》な打合せをすると、むす子は一ぱしの分別盛りの男のように、熟考して簡潔に返事を与えた。老紳士は易々として退いて行った。その間かの女は、むす子がふだんこういう人と交際《つきあ》うならお小遣が足りなくはあるまいか、詰めた生活をして恥を掻《か》くようなことはあるまいか、胸の中でむす子が貰う学資金の使い分けを見積りしていた。しかし、それよりも、むす子に向って次の靠れ壁から声をかけた一人の若い娘に考えは捉《とら》えられた。その娘は病気らしく、美しい顔が萎《しな》びていて僅《わず》かに片笑いだけした。
「ジュジュウ! 病気悪いか」
 娘はまた片笑いしただけだったが、かの女は、むす子がその娘に対する挨拶《あいさつ》に、ただの男らしい同情だけ響くのを敏く聞き取って、その女は遊び女に違いないにしろ、もっとむす子は優しく云ってやればいいのに、と思った。
「イチロ。空いたところがある」
 鳶色《とびいろ》の髪をフランス刈りにしたマネージャーが、人を突きのけるようにして、かの女等親子を導いて、いま食卓の卓布の上からギャルソンが、しきりにパン屑《くず》をはたき落している大テーブルへ連れて行った。そこでマネージャーは無言でぱっと両手を肩のところで拡《ひろ》げ、首をかしげて、今夜は忙しくて忙しくてという身振りをする。ギャルソンは新しい卓布を重ねて、花瓶の位置をかの女の方向へ置き直した。かの女はしばらく、薄紅色のカーネーションの花弁に、銀灰色の影のこまかく刻み入ってるのを眺め入った。
 小広いテーブルに重ねられた清潔な卓布は、シャンデリヤを射反《いかえ》して、人を眠くする雪明りのような刺戟《しげき》を眼に与える。その上に几帳面《きちょうめん》に並べられている銀の食器や陶器皿や、折り畳んだナフキンは、いよいよ寒白く光って、催眠術者の使う疑念の道具の小鏡のように、かの女の瞳《ひとみ》をしつこく追う。
「ああ、わたし、眠くなった。疲れた」かの女はこういって、体を休ましたい気持にも、ちょっとなったが、むす子と一緒と思えば、それを押し除《の》けて生々した張合いのある精神が背骨を伝って、ぐいぐい堕気を扱《しご》き上げるので、かの女は胸を張ったちゃんとした姿勢で、むす子と向い合った。そして眩《まぶ》しい瞳を花瓶の花の塊やパンの上に落着けた。
 焦茶色で絞り手拭《てぬぐい》の形をしているパンは、フランス独得の流儀で、皿に
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