のはかの女だった。かの女は和装で吾妻下駄《あずまげた》をからから桟橋に打ち鳴らしながら、まるで二三日の旅に親類へでも行くような安易さだった。
 かの女はまた情熱のしこる時は物事の認識が極度に変った。主観の思い詰める方向へ環境はするする手繰られて行った。
 身体に一本の太い棒が通ったように、むす子のことを思い詰めて、その想い以外のものは、自分の肉体でも、周囲の事情でも、全くかの女から存在を無視されてしまうときに、むす子のいる巴里は手を出したら掴《つか》めそうに思える。それほど近く感じられる雰囲気の中に、いべき筈《はず》のむす子がいない。眼つきらしいもの、微笑らしいもの、癖、声、青年らしい手、きれぎれにかの女の胸に閃《ひらめ》きはするが、かの女の愛感に馴染《なじ》まれたそれ等のものが、全部として触れられず、抱え取れない、その口惜しさや悲しさが身悶《みもだ》えさせる。ふとここでかの女の理性の足を失った魂のあこがれが、巴里の賑《にぎ》やかさという連想から銀座へでも行ったらむす子に会えそうな気を彼女にさせる。さすがに彼女も一二度はまさかと思い返してみるけれども、今度は、あこがれだけがずんずん募って行って、せめてあこがれを納得させるだけでも銀座へ踏み出してむす子の俤《おもかげ》を探さなければ居たたまれないほど強い力が込み上げて来る。で、ある時はむしろ、かの女の方から進んで銀座へ出たがるので、そんなとき逸作はかの女の気が晴れて来たのかと悦《よろこ》んでいる。かの女は夢とも現実とも別目《けじめ》のつかないこういう気持に牽《ひ》かれて、モナミへ入り、テーブルに倚りかかって、うつらうつらむす子と行った巴里のキャフェを想い耽《ふけ》る。


 モンパルナスのキャフェ・ド・ラ・クーポールの天井《てんじょう》や壁から折り返して来るモダンなシャンデリヤの白い光線は、仄《ほの》かにもまた強烈だった。立て籠《こ》めた莨《たばこ》の煙は上から照り澱《よど》められ、ちょうど人の立って歩けるぐらいの高さで、大広間の空気を上下の層に分っている。
 上層は昼のように明るく、床に近い下層の一面の灰紫色の黄昏《たそがれ》のような圏内は、五人或は八人ずつの食卓を仕切る胸ほどの低い靠《もた》れ框《がまち》で区切られている。凡《あら》ゆる人間の姿態と、あらゆる色彩の閃きと、また凡ゆる国籍の違った言葉の抑揚とが、框の区切りの中にぎっしり詰っている。出どころの判らない匂《にお》いと笑いと唄《うた》とを引き切るように掻《か》き分けて、物売りと、分別顔のギャルソンが皿を運んだり斡旋《あっせん》したりしている。
「しまった、お母さん、いい場所を先に取られちゃった」
 かの女をモンパルナスのキャフェ・ド・ラ・クーポールに導いて入ったむす子は、ダブル鈕《ボタン》の上着のポケットから内輪に手を出し、ちょっと指してそういった。
 そこは靠れ壁の枡目《ますめ》の幾側かに取り囲まれ、花の芯《しん》にも当る位置にあった。硝子《ガラス》と青銅で作られた小さい噴水の塔は、メカニズムの様式を、色変りのネオンで裏から照り透す仕掛けになっている。噴水は三四段の棚に噴き滴って落ち、最後の水受け盤の中には東洋の金魚が小鱒と一しょに泳いでいた。
「いいの、いいの、こんやは、こっちが晩《おそ》いのだから」    
 かの女は、ちっとも気にしない声でそういった。そして別の場所を探すよう、やや撫肩《なでがた》ながら厚味のあるむす子の肩の肉を押した。
 噴水のネオンの光線の加減のためか、水盤を取り巻いて、食卓を控えた靠れ壁の人々の姿はハッキリ[#「ハッキリ」に傍点]しなかった。しかし、向うは、もう気がついたらしく、西洋人の訛《なま》ったアクセントで呼びかけるのが聞えた。
「イチロ、イチロ」
「イチロ」
 息子の名を呼びかけるそれらは女の声もあるし、男の声もあった。クックという忍び笑いを入れて囁《ささや》くように呼ぶ声は、揶揄《からか》い交りではあるが、決して悪意のあるものではなかった。
「まあ、誰」
 かの女は首を低めて、むす子の肩からネオンの陰を覗《のぞ》き込んだ。むす子はそれに答えないで吃《ども》った。
「ああ、あいつ等が占領しているのか、だいぶ豊かと見えるな」
 そして、声のする噴水のかげの隅に向って、のびのびした挨拶《あいさつ》の手を挙げていった。
「子供等よ、騒ぐでないぞ、森の菌霊《こびと》が臼《うす》搗《つ》くときぞ」
 むす子は、おかしさが口の端から洩《も》れるのをそのまま、子供等に対する家長らしい厳しい作り声をあっさり唇に偽装して、相手の群に発音し終ると、くるりと元の方向に踏み直って歩き出した。
「やったな、やったな」という声や、またも、「イチロ、イチロ」という叫び声が爆笑と混って聴えた。五六人、西洋人らしい
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