、わざと昂然《こうぜん》とした態度を採る。その癖で今日も彼独得の陰性を帯びた背の反らし方をして、右手を絶えずやけに振り廻《まわ》していた。
「虚無でなければ無限絶対でないにしても嫋やかで魅力が無ければ僕たち人間には訴えて来ません」
規矩男の云うことはだんだん独語的になって、何の意味か、かの女にも判らなくなって来た。しまいには規矩男はナポレオンの晩年の悲運を思わせる、か細く丸く尖《とが》った顎《あご》を内へ引いて苦笑した。稚気を帯びた糸切歯の根元に細い金冠が嵌《はま》っている。かの女は急に規矩男が不憫《ふびん》で堪《たま》らなくなった。かの女の堰《せ》きとめかねるような哀憐《あいれん》の情がつい仕草に出て、規矩男の胸元についているイラクサの穂をむしり取ってやった。高等学校の制服を、釦《ボタン》がはち[#「はち」に傍点]切れるほどぴったり身につけている。胸の肉は釦の筋に竪の谷を拵《こしら》えるほどむっちり盛り上っている。紺サージの布地を通して何ものかを尋ね迫りつつ尋ねあぐんでいる心臓の無駄な喘《あえ》ぎを感ずると、何か優しい嫋やかなものに覆い包んで、早くこの若者を靉靆《あいたい》とした気持にさせてやりたい薄霧のような熱情が、かの女の身内から湧《わ》きあがった。
……かの女は無言で規矩男の手を…………ただそれだけであったけれど……。
かの女は唐突として規矩男から逃げ、武蔵野のとある往還へ出るまでのかの女は、ほとんど真しぐらに馳けた。その間雑木林の下道のゆるやかな坂を曲り、竹煮草《たけにぐさ》の森のような茂みの傍を通り、仄白い野菊の一ぱい咲いている野原の一片が眼に残り、やがて薄荷草《はっかそう》がくんくん匂って里近くなってきた往還で、かの女はタクシーを拾って、東京の山の手の自宅へ帰って来た。かの女の顔色は女中に見咎《みとが》められる程真青だった。かの女は自分の部屋へ入って半病人のように机の前に坐《すわ》ると「もう逢《あ》わない。もう逢わない」こう独言を云ってから規矩男に簡単な絶交状めいた手紙を書いた。
その夜、かの女は晩《おそ》く、こんなことを話し合える夫と妻とについて内心不思議がりながら、逸作に規矩男と自分との経過のあらましを話した。
「はははは……。そんなことだったのか、そうかははは……。だけどお蔭で君の一郎熱が近頃余程緩和されてたね。なあに規矩男君にも時々逢うさ。そして一郎熱を緩和しながら、君ももうすこし落着いて仕事にかかりたまえ」
逸作はこう云って莨《たばこ》に火をつけ、軽く笑い続け乍らかの女をまじまじと視《み》ていたが、
「きみい(君)、規矩男君の許嫁《いいなずけ》や僕に済まないと思わないで、一郎にばかり済まないって面白いなあ……ははは……」
「……その済まなさも私の何処かに漠然と潜んでいたには違いないのよ。でもそれは単なる道徳上の済まなさになるんだから、そんなに強いもんじゃないでしょう。こっちはしんからびりびりッと本能の皮膚にさわって来たのよ、もっともこの問題はむす子を仲介にして始まったんですから、むす子への済まなさが中心になったのがあたり前でしょうけど」
かの女はそう云って仕舞って、ふっと涙ぐんだ。かの女が何と云い訳しようとも、道徳よりも義理よりも、そしてあんなにも哀切な規矩男への愛情よりも、もっと心の奥底から子を涜《けが》したくなかった母の本能、しかく潔癖に、しかく敏感に、しかく本能的にもより本能的なる母の本能――それには、「むす子に済まない」そんなまだるい一通りな詞が結局当て嵌るべくもないのに、今更かの女は気がついた。むす子の存在の仲介によって発展した事情に於て××××……それを母の本能が怒ったのだ、何物の汚涜《おとく》も許さぬ母性の激怒が、かの女を規矩男から叱駆《しっく》したのだ。
四五年の日月が経過した。
むす子の画業は着々進んでいるらしく、ラントランシジャンとかそう云った手堅い巴里新聞《パリしんぶん》の学芸欄に、世界尖鋭画壇《せかいせんえいがだん》の有望画家の十指の一人にむす子の名前が報じられて来るようになって来た。むす子はその中でも最年少者で唯一の日本人であるだけに、特別の期待の眼を向けられている様子だった。
「まあ一郎が、まあ嘘《うそ》みたいな話ね。でも有難いわ。やっぱり真面目《まじめ》にやって呉《く》れたのね」
かの女には僥倖《ぎょうこう》という気持と、当然という自信に充《み》ちた気持とが縺《もつ》れ合った。
芸術という難航の世界、夫をそれに送りつけ、自分もその渦中に在る。つくづくその世界の有為転変を知るかの女は、世間の風聞にもはや動かされなくなっているにしても、しかし、それを通じて風浪の荒い航行中に、少くともかの女のむす子は舵《かじ》を正しく執りつつあるのを見て取った。健気《
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