子叙情の表現法だなあ」
かの女は、枕元《まくらもと》のスタンドの灯を消し、自分の頬《ほお》に並べて枕の上に置いてあった規矩男の手紙を更に夜闇《よやみ》のなかに投げ出した。規矩男の手紙を読み終えてから今までじっと悲しく見つめ考えていたスタンドの灯影の一条が、闇のなかで閉じたかの女の眼の底に畳まり込み、それが規矩男の手紙の字画の線の印象と同じ眼底で交り合い、なかなか眠りに入れそうもない。
規矩男の手紙には、かの女と逢わなくなったこの短時日の間に経た苦難の後の気持から出た響きがあった。
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……(前略)あなたが、あなたの母子情を仲介にして若い男に近づいていることが無意識にもせよ、あなたの母子情を利用しているようで堪えられないと仰有《おっしゃ》れば、僕とても、僕に潜在していた不満な恋愛感を、あなたに接触することで満足させようとしたと云われても――否むしろ僕自身そう僕を観察さえするようになりました。あなたの潔癖があなたの母子情を汚涜《おとく》することとして、それをあなたに許さないように、僕もあなたのその潔癖を汚しては済まないと思います。で、あなたとの御交際をこれ切りで打ち切らなければならないことも諒解《りょうかい》出来ました。しかし茲《ここ》で僕に少しく云わして頂き度い。あなたと僕と「性」の対蹠的《たいせきてき》な要素を無視して交響し合うことが出来なかったのは、かえりみて僕にもはっきりと判って来ましたが、僕は負け惜しみではありませんが、それを直《す》ぐフロイドのように性慾の本能というハッキリしたものへ持って結び付けることは浅はかだと思います。なぜなら、その本質はどこ迄も一元より更に基本性を帯びた根元の人間感覚では、空虚という絶対感に滅入してしまうより仕方のない奥深いところで結び合う――あのいつぞやあなたと話し合いましたね、ローレンスの文学を構成している性――あれですね。ローレンスの性の根本的意義はもちろん一方に性慾も含まれているには違いないが、もっと両性の細胞の持つ電子のプラスとマイナスの配合の問題として考え度《た》いと、あなたは仰有《おしゃ》いましたね。今にして思えば、僕等は僕等の性のおつき合いをあの解釈にあてはめ度いと思うのです。あたりまえのようで不思議なのは、あなたも僕も同じ熱情的であり自我的でありながら、それが空虚の心境にまで進んでいたことです。しかし、違うところ――つまりプラスとマイナスの相違となったのは、あなたのは何処までも教養で得た虚無であり、僕のは自我と熱情で強引に押し進めて行った結果のコチコチの殻を背負った虚無なのです。
僕は仄《ほの》かに力強いものをあなたに感じました。これ以上説明しにくいですが強いて云えば、あなたの空虚は――照らしているものの空虚――存在の意識を確めさせる空虚――夢中で弾ませる空虚――自然に在っては、微《かす》かな風に吹かれているときの花の茎に認められ――人間に在っては、一種の独断的な無心な状態に於けるとき湛《たた》えられている、あの何とも知れない無限で嫋《たお》やかな空虚――(後略)
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かの女は自分を虚無の殻に押し込め乍《なが》ら、まだまだ其処から陽の目を見よう見ようと※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、658−上−27]《もが》いている規矩男の情熱の赤黒い蔓《つる》を感じる。そしてその蔓の尖《さき》は、上へ延びようとして却《かえ》って下へ深く潜って行く……かの女は自分を潔くするためにそれを見殺しする自分の行為が、勝手がましくも感ぜられて悲しい。かの女は自分の娘時代の寂しくも熱苦しかった悶《もだ》えを想《おも》い出した。
(山に来て二十日経ぬれどあたたかくわれをいたはる一樹だになし――娘時代のかの女の歌より)精神から見放しにされたまま、物足りなさに啜《すす》り泣いていた豊饒《ほうじょう》な肉体――かの女が規矩男のその肉体をまざまざ感じたその日、かの女は武蔵野へ規矩男を無断で置いて来た。それが最後で規矩男からかの女は訣《わか》れ去って来て仕舞ったのであった。
その日規矩男の書斎から出た二人は、また武蔵野の初夏近い午後をぶらぶら歩き出した。一度日が陰って暗澹《あんたん》としたあたりの景色になったが、それを最後に空は全体として明るくなって来た。木々の若芽の叢《くさむら》が、垂れた房々を擡《もた》げてほのかに揮発性の匂《にお》いを発散する。山中の小さい峠の下り坂のようになって来た小径《こみち》は、赤土に湿りを帯びていて、かの女の履きものの踵《かかと》を、程よい粘度で一足一足に吸い込んだ。
規矩男はまだシェストフについて云い続けていた。そして彼が衷心の感想を話す時のてれ[#「てれ」に傍点]隠しに
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