彫りがしてあり、古代ギリシヤ型の簡素な時計が一個、書籍を山積した大デスクの上壁に、ボタンで留めたようにペッタリと掛っている。その他に装飾らしい何物もない。その室内で非常に目立つ一つのものは、ちょっと見ては何処の国の型かも判らない大型で彫刻のこんだ寝椅子《ねいす》が室の一隅に長々と横はり、その傍の壁を切ったような通路から稍々《やや》薄暗い畳敷きの日本室があり、あっさりと野菊の花を活《い》けた小さな床があった。
西洋室の二方にはライブラリ型の棚があり、其処には和洋雑多な書籍が詰っていた。だが、机の上の山積の書物にも書架の書物にも、紗《しゃ》のような薄い布が掛けてあって、書物の題名は殆《ほとん》ど読み分けられなかった。かの女がやや無遠慮にその布を捲《まく》ろうとすると、規矩男は手を振って「今日は書物なんかにかかわり度《た》くはないですよ」と止めた。
「だけどあなたは随分読書家なんでしょう」
「まあね」
規矩男はにやにや笑って、
「それだけに堪《たま》らなく嫌になって、幾日も密閉して、書物の面見るのも嫌になるんですよ。今はその時期です」
「人間にもそんなんじゃない」
「まあそんな傾向がないとは云えませんがね。しかし、人間に対しちゃ責任があるもの、いくら僕だってそんな露骨なことしやしません」
「だって一度恋人だったものがただの許嫁《いいなずけ》に戻ったりして……」
「あのことですか、だって僕は女性がまだあの頃判らなかったし、ただちょっと珍しかったからですよ」
「では、今は珍しくなくって、そして女性が判って来たとでもいうのですか」
「そんなこと云われると、僕はあれ[#「あれ」に傍点]のこと打ち明けなければ好かったと思いますよ。あなたは偉いようでも女だなあ。何も人間の判る判らないのに、順序や年代があると決らないでしょう。本を読んだり年を取ったり、体が育ったりするだけでも、その人の感情や嗜好《しこう》や興味は変って来るでしょう」
「それはそうね。でもその人を貫く大たいの情勢とか嗜好とかの性質は、そう変らないでしょう」
「そうです。それだけに大たいを貫くものにぶっ突からないものは、じきはずれて行くんです」
「それで判ったわ」
「ほんとうですか。書物にだってそうです。自分がその中に書いてあることにむしろ悩まされながら、執着したりかかずらわずにはいられない書物があるでしょう」
「近頃そんな書物に逢《あ》って?」
「シェストフですね。シェストフの虚無を随分苦しみながら噛《か》み締めました。だが、西洋人の虚無は、すでに『否定』という定義的な相手があっての上の虚無です。ですから感情的で痛快ですが、徹底した理智的なものとは云えません。と云って東洋人の虚無は、自然よりずっと冷い虚無です。石か木かに持たすべき思想です。そこで僕等は『何処へ行くべき』です」
「あなたの云うそれは、東洋の老荘思想の虚無よ。大乗哲学でいう『空』とか『無』とかはまるで違うのよ。あらゆるものを認めてそれを一たん無の価値にまで返し、其処から自由性を引き出す流通無碍《りゅうつうむげ》なものということなのよ。それこそ素晴しく闊達《かったつ》に其処からすべての生命が輝き出すということなの。ところが青年というものは、とかく否定好きなものなのよ。肯定は古くて否定は何か新鮮なように思うのね。生命の豊富な資源を使い分けるよりも、否定に片付いている方がむしろ単純で楽なんじゃない?」
「そう云われれば、僕なんか嫌でやり切れないくせに、シェストフの著書に引っぱられているわけが自分でも判るんです」
女中が紅茶を二つ運んで来て、規矩男の大デスクの上の書籍の空間へ置いて行った。規矩男は一つをかの女に与え、自分も一つを飲みながら、
「今日は母が居ないからご馳走《ちそう》がないな。だけどご馳走攻めされなくて煩わしくないでしょう」
でもそう云われればかの女は、それが規矩男の母の美点だとさえ思えて来るのである。煩わしいのはそれが形式で、その他の気持の上での分量を何も相手に与えないから、一方の形式が目立ち過ぎて煩わしく感じられるのだ。
「規矩男さんのお母さんは……」
とかの女が云いかけると、
「まあ僕の母のことは好いです」と抑えて、「あなたゴルキーの母という小説を読みましたか」
「ええ、読んでよ」
「あの母は感心というより可愛《かわ》ゆいな」
「ほんとう。母が始めから子供の理論を理解して共鳴したりしない処がむしろ可愛ゆいわね。子供に神様を取り上げられて悄気《しょげ》ながらも、子供の愛と同時にあの思想に引き入れられちまったのね」
「それはそうと、あなたはむす子さんのいいつけ[#「いいつけ」に傍点]通りの着物の色や柄を買って着ると仰有《おっしゃ》ったね。その襟の赤と黒の色の取り合せも?」
「ええ」
「ふーむ、ユニークな母
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