婚を、夫人がまだ身に沁《し》みて飽き足らず思っているのを感じた。
「お立派な方ですこと」かの女はしんから云った。
「いえ、似ちゃおりません」
 重ねて云った夫人の言葉は、かの女がびっくりして夫人の顔を見たほど、意地強い憎みの籠《こも》った声であった。そしてなおかの女が驚きを深くしたことは、夫人の面貌や態度に、今までに決して見かけなかった、捨て鉢であばずれのところを現わして来たことだった。夫人は、
「あは、はははは」
 何ということなしに笑ったようだが、その顔や声は夫人が古風な美貌であるだけに、ねびた嫌味があった。
 夫人は自分の変化をかの女に気取られたのを知って、ちょっとしまったという様子を見せ、指を旧式な「髷《まげ》なし」という洋髪の鬢《びん》と髱《たぼ》の間へ突込んで、ごしごし掻《か》きながら、しとやかな夫人を取り戻す心の沈静に努める様子だったが、額の小鬢には疳《かん》の筋がぴくりぴくり動いた。小鼻の皮肉な皺《しわ》は窪《くぼ》まった。
 かの女は目前の危急から逃れ度いような気もちになって、何か云い紛らしたかった。
「規矩男さんは、ご主人に似ていらっしゃいますこと」
「規矩男は主人に似てるといっても形だけなんでございますよ。あれはとても主人のようにはなれますまい」
 ここでまた夫人は白く笑った。
 夫人が云ってる様子は、かの女に云っているのか、独白なのかけじめのつかないような云い方だった。
「奥さま、あなたはさっき規矩男を、なかなかしっかりしてると仰《おっしゃ》って下さいましたが、そう云って下さるお心持は有難うございますけれども、実際規矩男はやくざ[#「やくざ」に傍点]で、世間の評判もよくありません。中学や高等学校はよく出来たんですけれども、それからが一向|纏《まと》まらないんです。多分、老後の父親が、つまらないことを死ぬまで云い聞かせて置いたためでしょう」
「それは規矩男さんからもうかがいました。でも、規矩男さんはいまそういうことに就《つ》いてだいぶ考えていらっしゃるようでございますが」漸《ようや》くかの女は言葉を挟む機会を捉《とら》えた。「大丈夫だと存じますが……」
「そうでございましょうか。わたしはあれが、どうせ主人のようにはなれませんでも、わたくしは何とかしてあの子を、勤め先のはっきりした会社員か何かにして、素性のいい嫁を貰って身を固めさしてやり度いと思うのでございます。それには大学だけは是非出て貰わねばなりません」
 かの女は夫人が、妻の自分にも子の規矩男にも夫の与えた暴戻なものに向って、呪いの感情を危く露出しそうになったのに、どうなることかとはらはらしていた。それもだんだん平板に落着いて来たが、あの規矩男にこういう母親の平凡な待望がかけられているとは、あまり見当違いも甚しく、母子ともに気の毒な感じがする。
 かの女はふと「あの規矩男さんのお嫁さんは、もうお決りのがございますの」と訊《き》いてみる気になった。それはいかにも、互のむす子を持つ母親同志の心遣いらしい会話であるのを思いついたので。
 すると夫人は可成り得意の色を見せて来て、
「はあ。少し義理のある知合いの娘で、気質もごくさっぱりしてますのがございますので、大体親達の間では決めてはいるんですけれども、これも、当人同志の折合い第一ですから、それとなく交際させて見ております」
 夫人はちらとかの女の顔色を見て、
「当人同志も、どうやら気に入り合ってるようでございます」
 そう云って夫人は、またかの女をもてなすために部屋を出て、女中に何かいいつけに行った。昔の恋人の娘をむす子の許嫁《いいなずけ》にした御都合主義も、客に茶菓ばかりむやみにすすめにかかる夫人の無智と同列なのではなかろうか、といよいよかの女は興覚めてくると、其処へ規矩男が、ふざけた子供のようなとぼけた顔をして入《はい》って来た。規矩男はかの女を自分の家へ案内して置いて、
「どうも女の人同志の初対面の挨拶《あいさつ》なんかへ、恥しくって立ち合えませんね」
 と狡《ずる》くはにかんで、書斎の方へ暫く逃げていたのだ。かの女には、それがもう十分規矩男が自分に馴《な》れて甘えて来た証拠のように思えた。かの女はあの母を見たあとにこの規矩男を見、切ない自分の「母子情」を仲介にして自分に近づく運命を持ち、そして自分の心をこれほど捉え、これ程自分に馴れ甘える青年を、自分はもう何処までも引き寄せて愛撫《あいぶ》し続けてやり度い心が、胸の底からぐっとこみ上げて来るのを感じた。 
 

 今日は規矩男の書斎に案内された。二階の一番後方に当った十五畳敷位の洋間である。浅緑のリノリュームが、室の二方を張った硝子窓《ガラスまど》から射《さ》し入る初夏近い日光を吸っている。高い天井は、他の室と同じ英国貴族の邸宅に見るような花紋の浮
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