けなげ》なむす子よ、とかの女は心で繰り返した。
「やっぱり君の子だ」
夫の逸作は、彼もうれしさを抑え乍ら、はたで鷹揚《おうよう》に見ている態度だった。年少の画学生時代に貧困で巴里留学を遂げられなかった理想の夢を、彼は今やむす子に実現さしている。運命に対する復讐《ふくしゅう》の快さを味わっている。それだけで満足している。
だのにむす子は真摯《しんし》な爪を磨いて、堅い芸術の鉄壁に一条の穴を穿《うが》ちかけている。彼は僥倖《ぎょうこう》というよりも、これをむす子の本能と見るよりしか仕方がなかった。
「やっぱり君のむす子だ」
逸作は、はじめかの女にいった言葉の意味と違った感慨をもって同じ言葉を二度云った。
「なにしろ、芸術餓鬼の子だからね」
するとかの女はからからと笑った。
芸術餓鬼といわれて、怒りも歓《よろこ》びもしないで、かの女のただ笑うだけである笑いには、寒白いものがあった。
兄弟の中で、二人までこの道に躓《つまず》いて生命を滅したものを持つかの女は、一家中でこの道に殉ずる最後唯一の人間と見なければならなかった。木の芽のような軟《やわらか》い心と、火のような激情の性質をもった超現実的な娘が、これほど大きくなったむす子を持つまでに、この世に成長したのは不思議である。そして、芸術という正体の掴《つか》み難いものに、娘時代同様、日夜、蚕が桑を食《は》むように噛《か》み入っている。
逸作には、人間の好みとか意志とかいうもの以上に、一族に流れている無形な逞《たくま》しいものが、かの女を一族の最後の堡塁《ほるい》として、支えているとしか思えなかった。それは既に本能化したものである。盲目の偉大な力である。今や、はね散って、むす子の上に烽火を揚げている。逸作は実に心中|讃嘆《さんたん》し度《た》いような気持もあり乍《なが》ら、口ではふだんからかの女に「芸術餓鬼」などとあだ名をつけてからかって居る。
或る日勤め先から帰って来た逸作がかの女に云った。
「おいおい、この間|巴里《パリ》から帰って来た社(逸作の勤め先)の島村君が態々《わざわざ》僕に云いに来たんだ。一郎君によく巴里で逢《あ》いました。実にしっかりやっておいでです。僕が何よりも嬉《うれ》しく思ったのは、一郎君が僕は僕をこんなに暮させていて呉《く》れるあんな親を持って仕合せです。否仕合せと思わなければならないといつも思ってますって、一郎君が云われたことです、とさ」
かの女は手を合わせて拝み度くなった。それは何処へかわからない、ただ有難い。徒《いたず》らに大きな理想を持っても万人は愚か、自分自身でさえ幸福になり得ない非力な人間が、ともかくもわが子とは云え、一人立派に成長した男子を今や完全な幸福感に置いている――それでまた親の責務の一端が肩から降りた気もするのである。かの女はいつも思っている。こんな生きる責務の重い世の中へ親あればこそ生れ来たった子。この世に出ようという意志が子にあって、自ら進んで出て来たわけでもないものを、親は先《ま》ず本能愛以外の明瞭《めいりょう》な責任観念からも、この世に於ける子の運命の最大責務者とならなければならない。その子に仕合せと一言でも感謝されるまでには、幾多の親の責任感と切実な哀憐《あいれん》が子に送られた結果なのである。そしてそれはまた、子に責任感を十分感じる親の報いられたる幸福でもあらねばならぬ。
数年間に巴里のむす子からかの女に宛《あ》てて寄越した手紙は百通以上にもなる。自分の現状を報じ、芸術の傾向を語り、ちょっとした走り書きの旅行便りからも、かの女はむす子がこの稚純晩成質の母である自分を強くし、人生の如何なる現実にも傷まず生きられるよう、しっかりした性根と、抵抗力のある心の皮膚を鍛えしむるよう心懸けている本能的なものが感じられた。
かの女はそれを読む度に、涙ぐんで笑いながら、
「それは、また、お前がお前自身に対する註文なのじゃないか。親子は共通の弱点を持っている。お前はよくも、そこに気がついた」
そしてさすがは男の子だ。むす子は孤独の寂しみと、他人の中の苦労によって、見事その弱点を克服しつつある。そして遥《はる》かに母を策動する。いや味ということの嫌いな男の子は、策動するにもわざと感情を見せないで、つけつけ物を云う。かの女を手荒そうに取り扱って、その些細《ささい》な近況からも、実人生の試験をするように細心な見張りを隠しながら、秘《ひそ》かに母の力を培わしている。かの女は、よくむす子と連れ立って巴里の街を歩くときのむす子の態度を思い出した。
「馬鹿だなあ」「僕もう知りませんよ」
かの女が、ともすれば何事かを空想しながら、車馬轢轆《しゃばれきろく》たる往還を、サインに関らずふらりふらり横切ったり、車道に斜にはみ出したりする迂
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