だった。客席には喧しい話声は一筋もなく、室全体として静物の絵のしとやかさを保っていた。ときどき店の奥のスタンドで、玻璃盞《はりさかずき》にソーダのフラッシュする音が、室内の春の静物図に揮発性を与えている。
 人を関《かま》いつけないときは、幾日でも平気でうっちゃらかしとくが、いざ関う段になるとうるさいほど世話を焼き出す、画描き気質《かたぎ》の逸作は、この頃、かの女の憂鬱《ゆううつ》が気になってならないらしかった。それで間《ま》がな隙《すき》がな、かの女を表へ連れ出す。まるで病人の気保養させる積りででもあるらしく、機嫌を取ってまで連れ出す。しかし単純な彼はいつも銀座である。そしてモナミである。かの女を連れ出して、この喫茶店のアカデミックな空気の中に游《およ》がせて置けば、かの女は、立派に愉快を取り戻せるものと信じ切っているらしく、かの女に茶を与え、つまみ物を取って与えた後は、ぽかんとして、勝手な考えに耽《ふけ》ったり、洋食を喰《た》べたり、元気で愛想よくテーブル越しに知人と話し合う。
 今も、「やあ」と彼が挨拶《あいさつ》したので、かの女が見ると、同じような「やあ」という朗らかな挨拶で応《う》けて、一人の老紳士が入って来た。紳士がインバネスの小脇《こわき》に抱え直したステッキの尖《さき》で弾かれるのを危がりながら、後に細身の青年が随《つ》いていた。
 老紳士は、眼鏡のなかの瞳《ひとみ》を忙しく働かせながら、あたりの客の立て込みの工合では、別に改った挨拶をせずとも、まだ空のある逸作等のテーブルに席を取っても不自然ではないと、すぐ見て取ったらしい、世馴《よな》れた態度で、無造作に通路に遊んでいた椅子を二つ、逸作等のテーブルに引き寄せた。自分が先へかけると、今度は、青年を自分の傍に掛けさせた。青年は痩《や》せていて、前屈《まえかが》みの身体に、よい布地の洋服を大事そうに着込んでいた。髪の毛をつやつやと撫《な》でつけていることを気まり悪がるように、青年は首を後へぐっと引いて、うつ向いていた。青年は、父に促されて、父を通して、かの女たちに、かすかな挨拶をした。
 老紳士が、かの女たちに話しかける声音は、場内で一番大きく響いたが、誰も聞き咎《とが》める様子もなかった。講演ですっかり声の灰汁《あく》が脱けている。その上、この学者出の有名な社会事業家は、人格の丸味を一番声調で人に聞き
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