来ましたね」そうだ復讐《ふくしゅう》をしたのだ。何かに対する復讐をしたのだ。そしてかの女に復讐をさして呉れたのはこのマロニエの都だ。
こういう気持からだけでも、十分かの女は、この都に、愛着を覚えた。よく、物語にある、仇打《あだうち》の女が助太刀の男に感謝のこころから、恋愛を惹起《じゃっき》して行く。そんな気持だった。けれども、かの女は帰国しなくてはならない。かの女は元来、郷土的の女であって、永く郷国の土に離れてはいられなかった。旅費も乏しくなった。逸作も日本へ帰って働かなければならない。そこで、せめて、かたみ[#「かたみ」に傍点]に血の繋《つな》がっているむす子を残して、なおも、この都とのつながりを取りとめて置く。そんな遣瀬《やるせ》ない親達の欲情も手伝って、むす子は巴里に残された。
「お母さん、とうとう巴里に来ましたね」
今後何年でもむす子のいるかぎり、毎年毎年、マロニエが巴里の街路に咲き迸《ほとばし》るであろう。そしてたとえ一人になっても、むす子は「お母さん、とうとう巴里に来ましたね」と胸の中で、いうだろう。だが、それが母と子の過去の運命に対する恨みの償却の言葉であり、あの都に対するかの女とむす子との愛のひめ言の代りとは誰が知ろう。
そうだ。むす子を巴里に残したのは一番むす子を手離し度《た》くない自分が――そして今は自分と凡《すべ》ての心の動きを同じくするようになったむす子の父が――さしたのだ。
かの女は、なおも、こんな事を考えながら、丸の内××省前の銅像のまわりのマロニエの木をよく見定め度い気持で、外套《がいとう》の袖《そで》で、バスの窓硝子《まどガラス》の曇りを拭《ぬぐ》っていると、車体はむんず[#「むんず」に傍点]と乗客を揺り上げながら、急角度に曲った。そのひまに窓外の闇《やみ》はマロニエの裸木を、銅像もろとも、掬《すく》い去った。かの女は席を向き直った。運転台や昇降口の空間から、眩《まぶ》しく、丸の内街の盛り場の夜の光が燦き入った。
喫茶店モナミは、階下の普請を仕変えたばかりで、電灯の色も浴後の肌のように爽《さわ》やかだった。客も多からず少からず、椅子《いす》、テーブルにまくばられて、ストーヴを止めたあとも人の薀気で程よく気温を室内に漂わしていた。季節よりやや早目の花が、同じく季節よりやや早目の流行服の男女と色彩を調え合って、ここもすでに春
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