ヤーのない筈《はず》はないもの。それを、今まで私に話さなかったもの。あなたの事情という事情は大がい聞いたあとに、残っているのはそればかりでしょう。しかも一番重大なことだからあとに残したってような、逆順序にしたんでしょう」
「やり切れないな。だがまあ、そうしときましょう。処でその事あんまり貧弱なんで僕恥しいんです」
規矩男は本当に恥じているように見えた。
「それよりも、今日はあなたのその靴木履《くつぽっくり》で、武蔵野の若草を踏んで歩く音をゆっくり聴かして頂くつもりです」
規矩男はわざと気取ってそういうのか、それとも繊細なこういう好みが、元来、彼に潜んでいるためか、探り兼ねるような無表情な声で云って、広い往還を畑地の中へ折れ曲った。其処の蓬若芽《よもぎわかめ》を敷きつめた原へ、規矩男は先にたって踏み入った。長い外国生活をして来てまだ下駄《げた》に馴《な》れないかの女は、靴を木履のように造らせて日本服の時用いるための履きものにしていた。そのゴム裏は、まるで音のないような滑らかな音をひいて、乙女の肌のような若芽の原を渡るのだった。
規矩男が進んで話さない恋愛事件を、あまり追及するのも悪どいと思って、かの女は規矩男が靴木履と云った自分の履きものを、右の足を前に出して、ちょっと眺めた。
「なるほど、靴木履。うまい名前をつけましたね」
台は普通の女用の木履|爪先《つまさき》に丸味をつけて、台や鼻緒と同じ色のフェルトの爪覆《つまおお》いを着せ、底は全部靴形で踏み立つのである。「この履きものおかしいですか。人からじろじろ見られて、とても恥しいことがあるのよ」
「いえ、そんなことありません。だが、あなたは必要上から何事でも率直にやられるようですね、そのことが普通の世間人にずいぶん誤解され勝ちなんでしょう」
かの女は、それは当っていると思った。しかし、真面目《まじめ》に規矩男の洞察に今更感謝する気にもなれなかった。かの女は誤解されても便利の方がいいと思うほど数々受けた誤解から、今や性根を据えさせられていた。かの女は、同情の声にはただ意志を潜めて、ふふふと小さく笑うだけだった。
「オリジナリティがあって立派なものですよ。威張って穿《は》いてお歩きなさいよ。春の郊外の若草の上を踏むのなんかには、とりわけ好いな」
規矩男は一寸《ちょっと》考えてまた云い続けた。「そういうオリジナリ
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