様とジャネットと私達二人一緒になってお店の商品を片っぱしから英仏独で呼び合いました。とても滑稽でしたわ。もう少しやればお客様に応待出来るでしょうと言われて大笑いよ。晩方ちょっと通りへ出ただけでした。
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六月二十四日 第七信(ベルリンにて)
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ママ、今日は早起きをしたの、五時にね。だってジャネットの学校を見せて貰うのだったから。ジャネットの学校はベルリンの西北隅に在る市立音響体操学校と言うの。女学校を卒業して一二年の間――結婚前のドイツ女子の希望者の為めに特に便宜を計って毎朝六時から八時頃まで色々の楽器――ピアノ、タンバリン、ヴァイオリンなどの音の強弱に合せて色々の体操をするのです。学生は大抵自転車で此の学校に駈けつけます。私達もちょっとやって見たくなりました。
今昼飯を食べた所なの。これからベルリン中央飛行場へドイツ最新型の尾の無い飛行機を見に行くの。ママ! 私はどうして斯うも飛行機が好きなんでしょう。――ママが身の痩《や》せる程私の飛行家になるのを恐れて居らっしゃるのに。私よく考えて見ますわ。
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六月二十五日 第八信(ベルリンにて)
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ママ、私昨晩から泣き続けですの。今も泣きながら手紙を書いて居ます。昨日飛行場からの帰り途《みち》でジャネットに私がアーミー・ジョンソンの様に女流陸軍飛行家希望の事や、ママが賛成して呉れぬ事を話したの。そしたらジャネットは晩飯の時、イリデ叔母様に話したので、イリデ叔母様は非常に真剣になって自分の考えを聴かせて下さったの――
「あなたのお母様ばかりでなく、全世界の母親は自分の娘が戦争を誘発するような女流軍事飛行家になるのを遮《さえ》ぎるでしょう。ドイツの男達が科学へ科学へと世界人類の精神的幸福という事も考えずに何かしら新しいことを発明しようと猛進して得たものは戦敗と賠償金でした。斯《か》かる無謀を敢《あえ》てしたのはドイツ人の心の底に広大な温かい人類愛が欠けて居たからです。ドイツの娘達が男子と一緒になって殺伐《さつばつ》な競走ごっこばかりして居たからです。スポーツも必要ですけれど心の底の優しい愛の芽をはぐくんで、其の愛の力に依って、逸《は》やる男達の心を和《やわら》げ、社会を楽しい天国のように、他国の人とも融合させて行かねばなりません。あなた方は生れて間も無い頃でしたから御記憶がないでしょうが、あなたのお母様や私共は本当に戦争の惨忍さを、まざまざ味わわされたのです。●
女達は不安と饑餓で死にそうでした。夫は右足を砲弾の破片で傷けられ、切断されて一度帰って来ましたが義足で歩けるようになると再び召集されました。そして二度目に帰って来た時は、どうでしたろう。ドイツ人が始めて発明した毒|瓦斯《ガス》でやられたのです。而かも敵の毒瓦斯か、味方のものか解らないのです。其の毒瓦斯に気管から肺を侵されて恐ろしい喘息《ぜんそく》になったのです。夜昼なしの十年間の苦しみでした。ウウウーと唸る声は夫の死後八年の今でも私の耳の底に響いて聞えます。憎むべき戦争! 私の夫を嬲殺《なぶりごろ》しにしました。私はやっとジャネットとウイリーの為めに生き続けて来ました。あなたのお母様も屹度《きっと》あなたを頼りに生きておいでに違いない。私共女は落ち付いて静かな深い愛を以って此頃の不安の国際関係を朗らかな親しいものにするよう努力しなければならぬと思います。そして努めて努めても駄目な時、其の時こそ正義の為め、愛の敵の為め闘いましょう。あなたはそうは思いませんか?」暫らく言葉を切ったイリデ叔母はウイリーの方をちらっと見て――
「だのにウイリーはナチスの党員になって、先日も突撃隊を志願すると言うの。しまいにはローマや巴里へでも突撃して行くつもりでしょうよ」
と言葉をつぎました。イリデ叔母様は眼も鼻も、くしゃくしゃにしてハンケチでこすって居らっしゃいました。ジャネットもイボギンヌもウイリーさえも泣きました。ウイリーは母の肩をさすって――「突撃隊志願はもう止めたよ、心配しなくともよい」――って言いました。ママは何故イリデ叔母様のように胸の悲しみを私に打ち明けて下さいませんでしたの。でも今こそママの苦しかったことを察することが出来ます。私はママの為めに、イリデ叔母様の為めにも陸軍飛行隊へなんか習いに行きません。次ぎの欧洲大戦の始まるまで飛行家志願はおあずけにして置きましょう。安心して下さい。ママ、愈々明後日、私達三人打ちそろってベルリンのツオー駅を出発して和蘭《オランダ》を通って、丁度此の手紙の着く翌日頃にはロンドンのリバプール・ストリート駅へ到着します。私はママの心の中に融け込むような、なごやかな気持ちで帰って行きます、楽しみにして待って居て下さい…
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