走りましたわ。●
そしたら小高い丘の上に人だかりがして騒いで居るのを見つけました。やっとその場へ着いた時イボギンヌは気が付いたように私にフランス語で説明して呉れました。村の男女の喧騒《けんそう》の中に在って沈着に大砲を準備して居る老人は此の村の村長でもう七十歳にもなるが砲術の名人で二十八年間此の役を引受けてやっているそうです。今此の村の農作物に恐るべき損害を与える雹を降らす黒雲を大砲で打ちまくって散らしてしまうというのです。慣れた人には此の雲は普通の雲と違って項《うなじ》を圧する一種の感じを与えるから直ぐ気付くと説明されて、成程《なるほど》私もそんな感じがすると言ったら笑われました。村人等は已《すで》に村の上に低く垂れ下って来た災難に当惑と恐怖を以《も》って眺めて居りました。それ打つのだという人々の一瞬のたじろぎのうちに最初の一発が老砲術家によってはなたれました。丘を震わして飛んで行った味方の決死隊の第一勇士は中空に於いて炸裂《さくれつ》しました。どんな効果が現われたか、果して怪物は退散させられたかと両手で耳を塞いだ儘、私達は恐る恐る空を覗きました。老人の沈着な態度、物凄い響きにも拘らず怪物は尚、形を崩さず徐々に近づいて来るではありませんか。とたん第二弾が飛び出しました。二・三分間程の間隔を置いて次ぎ次ぎに弾は発射されました。最後の十発の後もう一つ余計に打つ事に就いて村人等は声高に論議しました。やがて十一発目が飛んで行きました。科学と神秘との交錯した光景に私の頭は錯乱したようになって亢奮に身を顫《ふる》わせて空を見上げました。アアママ、自然の力の如何《いか》に偉大で人間の力の如何に弱小であるかを見せつけられました。村人等は最後の十一発も無効に終って其の黒雲が村全体の上を低く覆いかぶさってしまった時、失望の沈黙のうちにお互いの顔を見交わしました。然し其の沈黙は直ちに破れました。人事を尽して天命を待つという諦めとは違った――吾々は今不幸だ、だから元気をつける為めに大饗宴を開こうという積極的な行動となって現われました。
村人等は女も男も村長の家へ有り合せのものを持って集りました。外套の貝ボタンのような雹が野も畑も一せいに叩きつけるさ中を我関せずえんと言うふうに酒宴と踊りが始まりました、娘達の元気な笑声に私はあきれてしまいました、一晩中踊り抜くというのです。私は暫らく居てイボギンヌを促がして帰って眠《ねむり》ました。帰途イボギンヌにあの大砲で雲が撒《ち》った事があるのかと尋ねて見たら、稀《まれ》に火薬の破裂で濃い雲が散った事があるそうです。今朝は晴れて一点の雲もありません。村人達は昨晩の天災の残した跡を修理に忙がしがって居ます。愈々《いよいよ》明日は巴里へ帰ります。イボギンヌの家で二日休んで直ぐ二人して予定のベルリンのジャネットの所へ向う計画です。
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六月二十日 第五信(ベルリンにて)
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ママ、私共は昨晩十時五十分に巴里の北停車場からベルリン行きの国際列車に乗って途中|白耳義《ベルギー》に入りましたが夜中で眠って居たので知らずに通過して仕舞いました。やっと起きた朝八時頃にはもうドイツへ入って来ました。今日午後四時頃ベルリンのフリードリッヒ駅へ到着しました。ジャネットが直ぐ見付けて呉れました。ジャネットは思ったよりも大がらで、たくましくて日に焦《や》けて男の様な体格をして居るのに吃驚《びっくり》しました。ジャネットは英仏語がどちらも下手《へた》です。ジャネットの家族は母と兄のウイリーとだけの淋しい三人暮しだと言う事も、食料品店だという事も、イボギンヌ宛の手紙で私達は知って居ましたが、斯んなに家が狭くて貧しいとは想って居ませんでした。何もかも予想以外です。近隣の人達は誰れも不愉快そうな顔をして居ます。街には何んだか絶望のようなものを感じます。戦敗国の如何に惨めな事に深く心を打たれました。私達はたとえ独逸《ドイツ》を知り其の国語を習うためとは言え、陰惨なベルリンへやって来た事を少し後悔して居ります。でも二三日居付いたら、どう私達の考えが変るかわかりません。
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六月二十一日 第六信(ベルリンにて)
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今日は一日ジャネットの家で話して暮しました。ジャネットの母はイリデと言うの。大変に憔《やつ》れて居るわ。私達の独逸語を習いたい事を話したら、笑って、――つまらない事だ、斯んな国の言葉を憶えたって役に立たないでしょう。でも昔は帝政時代のドイツはどんなに立派だったか、見せたい――
と言いました。ジャネットの兄のウイリーは目下仕事がないので大学の講義を聴きに行きます。仕事があれば――道路|普請《ぶしん》の人夫でも――大学を止めて働きに行くそうです。イリデ叔母
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