……(後略)」
[#ここで字下げ終わり]

 前庭の芝生に面した居間、兼客間で午後の日射しを受けてアグネスからの最終の通信を読んで居たスルイヤは、今まで勝気に胸中の苦悶を圧《おさ》えつけて居ただけに、其の手紙の中に書かれてあるドイツの戦死者の未亡人イリデの嘆きに引き入れられて、烈しくむせび泣いた。夫の戦死以来の悲しい追憶が次ぎから次ぎへとスルイヤの胸をついて出た。彼女はやがて、ぐったり疲れた体を安楽椅子から起こしてぼろ[#「ぼろ」に傍点]自動車で踏み散らされた前庭を少し手入れしようと玄関の戸を開けて階段を下りかけたが、ちょっと立止まって晴れ上った夏の青空を眺めた。あんなに飛行家志願だった娘の心を自分の感情の為めに止させてしまったのが不憫《ふびん》で堪《たま》らないように感じた。それと同時に自分等の消極的平和主義の時代は過ぎ去って新しい時代、戦闘準備を完全にして始めて平和の保たれる時代が来て居るようにも感じられる。自分等の嘆きに娘の新しい思想を一がいにくらましてはならないとも感じられる。何事も娘が帰ってから更《あらた》めて語り合おうと心を定めた。そして彼女はともかくも久しぶりで娘の帰る嬉《よろこ》びにいそいそと料理場に入って行った。スルイヤはベジテリヤン(菜食主義者)であったが、其の家へ兎のシチュウの好きなフランス娘のイボギンヌと、ソーセージの好きな独逸《ドイツ》娘のジャネットが来るとアグネスが書いて寄こしたのを想い出しながら、可愛い娘の新らしい友達の為めに自分の主義はどうあろうと兎とソーセージは当分此の料理場に用意して置かずば――と決心した。



底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第一卷」冬樹社
   1974(昭和49)年9月15日初版第1刷
初出:「女性文化」
   1934(昭和9)年5月号
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全6ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング