しぼり立ての牛乳にレモンの花を一房投げ入れたような若い娘の体の匂いが彼の鼻を掠めた。すると新吉の血の中にしこりかけた鬱悶《うつもん》はすっと消えて、世にもみず/\しい匂いの籠った巴里が眼の前に再び展開しかけるのであった。新吉はその場にそぐわない、妙にしみ/″\した声で返事をした。
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――ほんとうにね。そうだとも、マドモアゼル。」
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そして彼の憧憬的になった心にまたしてもカテリイヌの追憶が浮ぶのだった。そうだ彼女に遇いたいものだ。今日という日はその為めに待ち焦《こが》れていた日ではないか。彼はそう思いながら、ひとりでにジャネットの丸い肩に手をかけた。何時《いつ》だったか、どの女だったか、彼の両肩に柔い手を置き、巴里祭のはなしをして呉れた感触を思い出した。
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――ほんとにその日は若いものに取っては出合いがしらの巴里ですの。恋の巴里ですの。」
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両肩の上に置いた其の女の柔い掌の堪《こた》え、そして、かつてカテリイヌを新吉が抱えたときのあの華やかな圧迫。触覚の上に烙《や》きつけられた昔の記憶が今、自分が手を置いて居る若い娘の潤《うるお》った肩の厚い肉感に生々しく呼び覚まされると新吉の心は急に掻きむしられるように焦立た[#「た」に「ママ」の注記]って来た。思わず呼吸が弾《はず》んで来るのだった。にわかに弾《はじ》いたように見ひらいた彼の瞳孔には生気の盛り上るイタリー街の男女の群の揉《も》み合う光景が華々しく映った。太陽の熱に脹《ふく》れ上る金髪。汗に溶ける白粉の匂い、かん[#「かん」に傍点]ばかりで受け答えしている話声。女達の晴着の絹の袖をよじって捲きつけている男の強い腕。――だが結局新吉の遠い記憶と眼前の実感は一致しなかった。新吉の頭は疲れて早くどこかの人群《ひとごみ》のなだれに押されて行って、其処で見出して思わず抱き合ってしまう現実のカテリイヌを見出したいと思った。傍の二人の女は其の時までの道連れだ。どれも向うからついて来た女達だ。自分の知ったことではない。この女達にあんまりこだわらないことにしよう。彼は弾んだ呼吸をすっかり太息《といき》に吐き出すと、ベッシェール夫人は冗談のように言った。
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――レデーを二人も傍に置いときながら国元の奥さんの想い出に耽《ふけ》るなんて、あたしたちに失礼だわねえ、マドモアゼル。さあ、もう此のくらいで出かけましょう。」
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夫人は日傘とお揃いの模様の女鞄の中から手早く勘定を払った。
あたりの賑わしさを頭から叩き伏せるように力ずくの音楽が破裂している。それに負けまいとメリーゴーラウンドの台が浪を打って廻転する。此所ピギャールの角を中心に色々の屋台店が道の真中に軒を並べている。新吉と二人の女とはモンマルトルの盛り場の人混《ひとご》みへ互に肩を打当てゝ笑いさゞめきながら、なだれ込んだ。一軒の屋台では若者達が半身乗り出して、後へ上げた足に靴の底裏を見せながら、竿の糸でシャンパンの壜を釣ろうと競って居る。一軒の屋台では女を肩に靠《もた》せながら男が白い紙を貼った額《がく》を覗っている。鉄砲が鳴って女がぴくっとする刹那に額の白紙は破れて二人の写真が撮れているのだ。泣き出しそうな憂鬱な顔をして棒のように立っている運命判断の女。ルーレット球ころがし。その間にけばけばしい色彩で壁に淫靡《いんび》な裸体女と踏み躙《にじ》られた黒人を描いて、思わせ振りな暗い入口が五六段の階段の上についている|食しんぼう小屋《ラ・バラック・ド・グウルユ》のようなものが混っている。
人々が此所へ来ると野性と出鱈目をむき出しにして、もっと/\と興味を漁《あさ》るために揉み合う。球を投げ当てゝ取った椰子《やし》の実をその場で叩き割り、中の薄い石鹸色の水をごぼごぼ咽喉を鳴らして飲みながら職人風の男が四五人群集を分けて行く。
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――ちょいと気を付けてよ。汁が跳ねかえってよ。まさかあんたがいゝ人になってあたしのよごれた靴下を買い直して呉れるわけでもなし――。」
――はい、はい、気を付けますよ。抱《だ》き堪《ごた》えのあるお嬢さん――。」
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ジャネットは此の人混《ひとご》みにあおられるとすっかり田舎女の野性をむき出しにしてロアール地方の訛《なま》りで臆面もなく、すれ違う男達の冗談に酬いた。白いむきだしの腕を張り腰にあて誇張した腰の振り方をし、時に相手によってはみだりがましくも感じられる素振りさえ見せて笑った。曲げた帽子の鍔《つば》の下からかもじ[#「かもじ」に傍点]の巻毛の尖きを
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