ら食卓に並んだ真中の新吉を越して夫人に快濶《かいかつ》に話している。新吉はだんだん夫人と娘の様子を見て居るうちに夫人とも此の娘の出現がかねて何かの黙契《もっけい》を持って居たのではなかろうかとさえ思われ始めた。
リサと友達の此の夫人が、或いは昨日か昨夜かのリサとの謀計で此の娘が出現したのではなかろうか。それにしても娘は夫人に初対面のように語る。名をジャネットと言って巴里の近郊に沢山ある白粉工場で働いて居るはなし。国元はロアールの流れの傍で、飼兎の料理と手製の葡萄酒で育ったはなし。それを新吉にも聞えるように娘は話して居るのである。
娘は少しおかめ型の顔をしてマネキン人形のような美しさに整《ととの》い過ぎているようだが、頬や顎のふくらみにはやっぱり若さの雫《しずく》が滴《したた》っていた。彼女は食事中にやれ芥子《からし》の壺を取って呉れの、水が飲みたいのと新吉に平気で世話を焼かせ、あとはまた新吉を越してベッシェール夫人と話し続けて行く。新吉は苦笑した。
なりは大きいがまだ子供だ。此の子供の何処に感情の引っかゝりがあるのだ。リサは余りに若いのを選むのに捉われ過ぎた。新吉はジャネットの均一ものゝ頸飾りをちょっとつまんで、
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――これよく似合うね。君に。」
――でも、これはほんの廉《やす》ものなの。こちらのマダムのなんか見ると、まったく悲しくなるわ。」
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新吉はこの娘はまだ十七に届いていない年頃なのに相当、人の機嫌をとることにも慣れて居るのに驚いた。夫人も上機嫌で娘に言った。
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――あんた、せい/″\此のムッシュウの気に入るように仕掛けて、あたしのような首飾りを買ってお貰いなさいよ。」
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新吉の日本の妻にさえ嫉妬する夫人が眼の前の此の娘の出現にこんなに無関心で居られる――娘といい、夫人といい、巴里の女の表裏、真偽を今更のように新吉は不思議がった。遊戯のなかに切実性があり、切実かと思えば直ぐ遊戯めく。それにしても上流中流の人達が留守にした巴里の混雑のなかに、優雅な夫人と、鄙《ひな》びて居ても何処か上品な娘を連れた新吉の一行は人の眼についた。
昼の食事の時刻も移ったと見えて店内の客はぽつ/\立上って行く。男女二人ずつ立って行く姿が壁鏡に背中を見せる。給仕《ギャルソン》がブリオーシュ(パン菓子)を籠に積み直してテーブルに腹匍《はらば》いになって拭く。往来の人影も一層濃くなって酒に寛《くつろ》げられた笑い声が午後の日射しのなかに爆発する。群衆の隙から斜めに見えるオペラの辻の角のカフェ・ド・ラ・ペイには双眼鏡を肩から釣り下げたり、写真機を持った観光の外人客が並んで、行人に鼻を突き合せるほど道路にせり出して、之れが花の巴里の賑いかと気を奪われたような、むずかしい顔をして眺めて居る。行ったり来たりして、しつこく附纏う南京豆売り、壁紙売り。角のカフェ・ド・ラ・ペイとこっちのイタリー街の角との間は小広く引込んだ道になっていて、其の突当りがグランド・オペラだが此所からは見えない。たゞその前の地下鉄の停留所の階段口から人の塊が水門の渦のようになって、もく/\と吐き出されるのが見える。
暫らく雲が途絶えたと見え、夏の陽がぎらぎら此の巷《ちまた》に照りつけて来た。キャフェの差し出し日覆いは明るい布地にくっきりと赤と黒の縞目を浮き出させて其の下にいる客をいかにも涼しそうに楽しく見せる。他の店の黄色或いは丹色の日覆いも旗の色と共に眼に効果を現わして来た。包囲した鬨《とき》の声のような喧騒に混って音楽の音が八方から伝わる。
新吉は向う側の装身具店の日覆いの下に濃い陰に取り込められ、却《かえ》って目立ち出した雲母の皮膚を持つマネキン人形や真珠のレースの滝や、プラチナやダイヤモンドに噛みついているつくりものゝ狆《ちん》や、そういう店飾りを群集の人影の明滅の間からぼんやり眺めて、流石に巴里の中心地もどことなくアメリカ人の好みに佞《おもね》ってアメリカ化されているけはい[#「けはい」に傍点]を感じた。けば/\しい虎の皮の外套を着たアメリカ女。早昼食《クイックランチ》。「御勘定は弗《ドル》で結構でございます。」と書いた喰べ物屋のびら[#「びら」に傍点]。筋向いのフォードの巴里支店では新型十万台廉売の広告をしている。
食後の胃のけだるさがそうさせるのか新吉の不均衡な感情は無暗に巴里の軽薄を憎み度くなってじれ/\して来た。その時ジャネットが彼を顧向《ふりむ》いて夫人との間の話に合図を打たせようと身体を寄せて言った。
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――どう。そうじゃなくて。ムッシュウ。」
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