引っぱりおろして右眉のすれすれに唾で貼りつけた。流石のベッシェール夫人も大ように見ていられなくなり嫌な顔して黙ってしまった。然しジャネットはそんなことぐらいを気にとめる様子もなくいよ/\発揮した。
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――HEY《ヘイ》!。」
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 何処で覚えたか下等な人を呼びかけるアメリカ語を使い、口笛を嚠喨《りゅうりょう》と吹いた。これほどの喧騒も混み合いも新吉がカテリイヌを追い求める心をまぎらわすことは出来なかった。午後になり時間がせまればせまるほど気があせり、まわりの形色も物音もぼっとなって夢の中を歩いているようで、広い巴里のなかの何処に居るとも知れぬカテリイヌの面影が却って現実のように眼の前にちらついた。其の面影は面長で、たゞ真白な顔――黒とも藍ともつかぬ睫《まつげ》のなかに煙っている二つの瞳で、じっと見入られる、――言おうようない香りの高い、けだるい感じが新吉の手足の神経の末梢まで、浸み透り、心の底にふるえている男としての恥かしさと、妙な諧調を混え、新吉はやがて恍惚とした無抵抗状態になるのだった。花弁のように軽くて、無限の重さのあったカテリイヌの体重さえも太陽に熱くなったズボンの下の膝に如実に感じられるのだった。そしてだん/\新吉は疲れて行った。
 新吉は堪らなくなった。彼を無意識に疲れさすその面影から逃れるためには現実のカテリイヌが早く出て来て呉れるか、もっと違った強力な魅惑が彼の注意を根こそぎ奪うかして呉れるのでなければならなかった。新吉は早くこの二人の女に別れて、カテリイヌを探す為めに今日の巴里祭の雑沓の中を駆け廻りたいような衝動にかり立てられた。また心の一方ではあまり空漠とした欲望を広い巴里に持ちあぐむ自分にあきれ返って、やけに酒でも飲みに連れの二人を誘うと立止まった。
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――此の|老ぶれ《ビューコン》餓鬼!。」
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 まだ初心《うぶ》な娘の声をわざと蓮《はす》ッ葉《ぱ》にはしらせてジャネットが一人の男に叫んでいるのだった。そして其の男の手に持っていた風船玉を引ったくった。男は風船玉を奪い返すようなふりをしながらジャネットの手首を掴え、それから強い力で自分の方へ、くるりと廻して左に抱えてしまった。
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――およしってば、連れがあるんだよ。」
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 流石に人中を憚《はばか》ってジャネットは羽がいじめの下でわめいた。――わめき乍らジャネットが新吉の方へ救いを求めるように手を出したので、その方向を辿って男は新吉を見つけると、
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――青二才だな。」
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 そう言って女を離した。それから新吉の傍まで来るとちょいと顔を覗いて、
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――おまえ西班牙人《スパニッシュ》か、しっぽりとやんな。」
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 巌丈な手で新吉の肩を痛いほど叩いて彼は行き過ぎた。中年過ぎた鬚《ひげ》の削《そ》りあとが青い男で、頬や眉の附根に脂肪の寄りがあり、瘤《こぶ》の寄ったような人相だが、どこか粋《いき》でどっぷりと湛《たた》えた愛嬌があった。新吉はわれを忘れて見送った。あれ程の年をしながら青年のように女に対して興味が充実してる男が羨《うらや》ましかった。新吉のようにもう夢のほか感情の歯の力を失ったものは彼のような男にすれ違っただけで自分の青白い寂寥《せきりょう》が感じられた。
 ジャネットはと見ると人混みに紛《まぎ》れ行く男の姿をいつまでも見送りながら群集に押されて新吉のそばまで来た。
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――あたし今日、モンマルトル一のジゴロに声をかけられたのよ。」
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 そう言って彼女はやっぱり人に押されながら鏡を取り出して自分の風姿を調べた。
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――あんたさえ居なかったら今日一日、あの人に遊ばせて貰えたかも知れなかったわよ。」
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 彼女の声には真実少し卑しい恨みがましい調子があった。すると彼女から遊離して居た新吉に急に反撥心が出て来た。彼は手荒くジャネットの露出《むきだ》しの腕を握って二三度|揺《ゆす》ぶった。
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――あたしと仲好くするんだ。またと他の男に振り向きでもすると承知しないよ。」
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 すると不思議にジャネットは素直になり手に風船玉を持ち乍ら新吉の腕に抱えられにっこり彼の顔を見上げて笑った。
 其所へ一人で行き過ぎて、はぐれてしまったベッシェール夫人が
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