巴里の秋
岡本かの子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)河波《かわなみ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今月|一《いっ》ぱい

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ふん[#「ふん」に傍点]らしい
−−

 セーヌの河波《かわなみ》の上かわが、白《しら》ちゃけて来る。風が、うすら冷たくそのうえを上走り始める。中の島の岸杭がちょっと虫《むし》ばんだように腐《くさ》ったところへ渡り鳥のふん[#「ふん」に傍点]らしい斑《まだら》がぽっつり光る。柳《やなぎ》が、気ぜわしそうにそのくせ淋《さみ》しく揺《ゆ》れる。橋が、夏とは違ってもっとよそよそしく乾くと、靴《くつ》より、日本のひより[#「ひより」に傍点]下駄《げた》をはいて歩く音の方がふさわしい感じである。巴里に秋が来たのだ。いつ来たのだろう、夏との袂別《べいべつ》をいつしたとも見えないのに秋をひそかに巴里は迎えいれて、むしろ人達を惑《まど》わせる。そうなると、街路樹《がいろじゅ》の葉が枯葉《かれは》となって女や男の冬着の帽《ぼう》や服の肩へ落ち重なるのも間のない事だ。
 ハンチングを横っちょにかむり、何か腹掛《はらが》けのようなものを胸に当てたアイスクリーム屋のイタリー人が、いつか焼栗《やきぐり》売りに変《かわ》っている。とある街角《まちかど》などでばたばたと火を煽《あお》ぎながら、
 ――は、いらはい、いらはい、早いこと! 早いこと! アイスクリームの寒帯から早く焼栗屋の熱帯へ……は、いらはい、いらはい。
 空には今日も浮雲《うきぐも》が四抹《しまつ》、五抹。そして流行着のマネキンを乗せたロンドン通《がよ》いの飛行機が悠長《ゆうちょう》に飛んで行く。
 ――いよいよね。今月|一《いっ》ぱいで店を畳《たた》んで、はあ、ツール在の土となるまでの巣を見つけて買い取りましたよ。巴里にも三十年、まあ三十年もまめに働けばもう、楽に穴にもぐって行く時節《じせつ》が来たというものですよ。
 パッシー通りで夫婦|揃《そろ》って食料品店で働き抜いた五十五、六の男の自然に枯《か》れた声も秋風のなかにふさわしい。男は小金《こがね》を貯《た》めた。多くの巴里人のならわし通りこの男も老後を七、八十|里《り》巴里から離れた田舎《いなか》へ恰好《かっこう》な家を見付けて買取《か
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング