いと》り、コックに一人の女中ぐらい置いて夫婦の後年を閑居《かんきょ》しようという人達だ。
 ――店の跡《あと》を譲《ゆず》った人も素性《すじょう》はよし(もちろん売り渡したのだが)安心して引込《ひっこ》めますよ。この秋は邸《やしき》のまわりの栗の樹からうんと実もとれますし、来秋から邸についた葡萄《ぶどう》畑で素敵な新酒を造りますよ。どうぞおひまを見てお訪ね下さい。
 相手になっているのは、これも勤勉な隣街《となりまち》の大きな靴店のおやじだ。
 ひるひとときはひっそりとする巴里《パリ》。ひるのひとときが夜のひそけさになる巴里。秋は殊《こと》さらひそかになる昼だ。
 何処《どこ》か寂然《せきぜん》として、瓢逸《ひょういつ》な街路便所や古塀《こべい》の壁面にいつ誰が貼《は》って行ったともしれないフラテリニ兄弟の喜劇座のビラなどが、少し捲《めく》れたビラじりを風に動かしていたりする。
 ブーロウニュの森の一処《ひとところ》をそっくり運んで来たようなショーウインドウを見る。枯れてまでどこ迄《まで》もデリカを失わない木《こ》の葉のなかへ、スマートな男女|散策《さんさく》の人形を置いたりしている。オペラ通りなどで、そんなデリカなショーウインドウとは似てもつかないけばけばしいアメリカの金持ち女などが停《た》ち止《どま》って覗《のぞ》いているのなどたまたま眼につく。キャフェのテラスに並んでうそ寒く肩をしぼめながら誂《あつら》えたコーヒの色は一《ひと》きわきめ[#「きめ」に傍点]こまかに濃く色が沈んで、唇《くちびる》に当《あた》るグラスの親しみも余計《よけい》しみじみと感ぜられる。店頭に出始めたぬれたカキのから[#「から」に傍点]のなかに弾力のある身が灯火《あかり》に光って並んでいる。路傍《みちばた》の犬がだんだんおとなしくしおらしく見え出す。西洋の犬は日本の犬のように人を見ても吠《ほ》えたりおどしたりしない、その犬たちが秋から冬はよけいにおとなしく人なつこくなる。
 公園で子を遊ばしている子守《こもり》達の会話がふと耳に入る。
 十八、九なのが二つ三つ年上の編物《あみもの》を覗《のぞ》き込みながら、
 ――あんた、まだそれっぽっち。
 ――だってあのおいたさんを遊ばせながらだもの。
 なるほど、傍《そば》で砂いじりしている子はおいたさんと呼ばれるほどの一くせありげないたずらっ子の男
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