りながら、しかし勇気を起して訊ねました。
「あの、あなたの奥さまの悲劇はどういうことから起りましたの」
すると、及川はぐっと口を結んだが、額《ひたい》の小鬢《こびん》には興奮の血管が太く二三筋現れました。けれどやがてその興奮をも強く圧えてから云った。
「つまり、私があんまり完全無欠に女を愛し切ろうとしたためです。あの種の女に取ってはそういう男の熱情がただ圧制とばかり感じられて、死にもの狂いの反抗心を起させると見えます。こんなことを人に話しても判って貰えないかも知れませんが……」
及川は顔を悪魔のように皺《しわ》めて、
「やっぱり女には一部分それとなく気ままな自由を残して置いてやらなければ息がつけないと見えますね」
悔いと怒りを堪えるために却って無表情に帰した中年男の逞ましい意旨だけが、大きく瞠いた眼と、膨れた鼻孔とに読めました。
「私も前半生に於て痛切な勉強をしたものです」と彼は小さく声を低めて云いました。
私はむくりと骨から剥がれた肉の痛みのようなものを心に感じて、今居ない珪次が可愛相でならなくなりました。その痛みは珪次から離れて、この中年の男に牽かれ始めた私の魂の剥離作用に
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