か》も、辺鄙《へんぴ》な深川の材木堀の間に浮島のように存在する自分の家を呪《のろ》った。彼女は、自分の内気な引込み思案の性質を顧みるより先に、此の住居の位置が自分を現代的交際場裡へ押し出させないのだと不満に思う。その呪いとか不満が彼女のひそかな情熱とからみ合って一種の苦しみになっていた。
 うっとりとした晩春の空気を驚かして西隣に在る製板所の丸鋸《まるのこ》が、けたたましい音を立てて材木を噛《か》じり始めた。その音が自分の頭から体を真二つに引き裂くように感じて鈴子は思わず顔が赤くなり、幾分ゆるめていた体を引き締め、開きめの両膝をぴったりと付ける、とたんにもくもくと眼近くの堀の底から濁りが起ってボラのような泥色の魚がすっと通り過ぎた。鈴子は息を呑《の》んで、今一度、その魚の現われて来るのを待ち構えた。
「鈴ちゃん、また堀を覗いている。そんなに魚が見度《みた》かったら、水族館へでも行けば好いじゃないか。順ちゃんがね、また喘息《ぜんそく》を起したからお医者へ連れて行ってお呉れ」
 忙がしく母親が呼ぶ声を聞いて鈴子は「あ、またか」と思った。六歳になる一人の弟の順一が昨年の春、百日咳にかかって以
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