ば》がなかったら加奈子は夢を踏んでその向う坂の書割の中に靴を踏み込めたかも知れない。だがその小魚たちは加奈子の眼の知覚を呼び覚《さま》して加奈子はその次の蕎麦《そぱ》屋に気がつき、その次の薬屋に気がつく。伯林のカイゼル・ウィルヘルム街の薬屋へ繕《なお》しに預けて置いたまま伯林を立ってしまったおしろいの噴霧筆《エア・ブラッシュ》はどうしたろう。
 そこで横町へ曲った。加奈子の頭にはもう豆腐屋のことしか無かった。まだあの店はあるだろうか。永らく孀《やもめ》暮しをしていて、一人で豆をひいていたのだったが世話する者があって夫婦養子をしたところが入籍してしまってから養子たちは養母をひどくいじめだしたという近所の噂だった。その癖、その養子たちは人の好さそうなポカンとした顔つきをしていて、むしろいじめられる養母の方が鬼瓦のようなきりょうの年増であったが。
 車の蔭に古簾が見え出して角の中に琴という字が書いてあった油障子はペンキ塗りの硝子戸に変っているが相変らず、さらし袋のかかっている店先の山椒の木の傍で子供が転んで泣いている背中を親鶏とヒヨコがあわてて跨《また》いで行く。
[#ここから改行天付き、折
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