もまだ落付かない思い切りの悪い神経質の様子が見える。
 襟巻を外ずしながら亭主が帰って来ておかみさんの膝の赤ん坊の赤い足を着物の裾《すそ》の中から探し出して握った。どういうわけだかちょっと赤ん坊の足の裏のにおいを嗅ぐ。人の好さそうな肉体の勝った亭主だ。この種の人間は物を握ったり重量をみたりすることによって愛情が感じられるらしい。加奈子は裸の赤ん坊の温気で重量器の磨き上げた真鍮《しんちゅう》の鎖が曇るストックホルムの優良児の奨励共進会を思い出した。わずかな重量を増そうと量る前に腹一ぱい父親の命令で赤ん坊に乳を飲ましていた雀斑《そばかす》だらけの母親をも思い出した。
 五六軒先の荒物屋の溝板と溝板の上のバケツや焙烙《ほうろく》が鳴って十六七の男の子が飛出して来た。右側に通る電車の後を敏捷《びんしょう》に突き切り途端に鼻先きを掠《かす》める左側の電車を、線路の中道に立止まって遣《や》り過すときに掌で電車の腹を撫《な》でる。撫でられた電車の腹はそこだけ埃《ほこり》を擦り除られた春光にピカピカ映るワニスの光沢を明瞭に一筋のこしてガタンガタン交叉点の進メの信号に向ってうねを打って行く。男の子はそのあとの線路をハイハードルのコツで大きく高く跳ね越えて丁度踏み出す加奈子の靴尖に踏み立つ。
 少年と青年の間の年頃の男の子は、すこしむっとして顔を赭《あか》くして除《よ》けて通って行く加奈子の横顔から断髪の頸筋の青い剃《そり》あとを珍らしそうに見詰め何かはやり唄をうたい乍《なが》ら、腰で唄の調子を取りながら暫く立止まっている。
 つい先頃まで流行して居たはやり唄が和訳されてもう町の童《わらべ》の唇に上っている。なんて早い日本だろう。それよりかもさきほどから弾丸のように飛出して来て敏捷の間にいくつもの早業《はやわざ》をやる男の子の手足が生きて加奈子の眼底に残った。加奈子は五六歩過ぎてからまた振返って男の子をみた。男の子はマッチの包みと割箸《わりばし》の袋とを左右の手で巧《たくみ》に投上げながら唄に合せる腰の調子は相変らずやめずになおもこっちを見つづけている。
 倫敦《ロンドン》へ日本の芝居がかかった事があった。座長は大阪の三流どこの俳優で幹部二三人の外《ほか》はアメリカで仕込んだ素人《しろうと》だから見ていてトテモはらはらした。だがそこで不思議な日本を見た。狐忠信の幕で若い日本の娘たちが花四天になって踊るのだが外人の踊りを見慣れた眼には娘の手足がまるで唐草模様のように巻いたりくねって動くのが人間より抜けていた。顔と身体は人形で手足だけ人間以上の生命を盛っている。そういえば巴里《パリ》の踊り場でみる日本のタンゴというものが腰に異様なねばりと業《わざ》があってみんな女と柔道をやっているもののように眺められた。三度目に加奈子が振返ったときに男の子は定めた方向へ行くのをやめて加奈子の方へついて来た。加奈子は男の子の飛出した荒物屋を眺めた。
 日々に壊滅して行く伯林《ベルリン》の小産階級。あすこでこういう程度の荒物屋は荒物商いだけでは勿論足りないので大概素人洗濯を内職にしていた。親一人、子一人。娘が一人あるにはあるが他所《よそ》へ間借りをして職業婦人になっている。かたわら富裕な外国人を友達に持ちたがっている。持つかと思うと不器量で逃げられる。母親の手一つでやる素人洗濯だが西洋の肌着のことゆえ蝋引《ろうびき》だけは専門家同様しなくてはならない。それで狭い土間に一ぱいの火のし機械を据えている。暇があればそれに取りついていて彼女自身もすっかり乾燥してしまっている。欧洲大戦で毒|瓦斯《ガス》を吸い込んで肺を悪るくしてじりじり死んで行った夫の話は人事のようにペラペラ喋《しゃベ》るが眼の前にしきりなしにおちて来るいつもの緊急令には恨めしい眼をして黙ってしまう。これでも営業している手前どうせ税の増えることばかりだ。そして息子はナチス。やっと月謝を工面《くめん》して体操学校へ通って中等教員の免状を取るつもりだがその免状を取ってからにしても殆んど就職の当てはない。道路工事や雪掻き仕事があればいつでも学校を休んでその方へ行く。けれども僅かながらも資本をおろし、商ないをしている家に育った息子だけに純粋の労働者にはなり切れない。そこでナチス。横町の酒店の支部にしょっちゅう集まって支部旗の上げ下ろしの手伝いもやる。スケート館に大会のあるときは決死隊の一人になって演壇に背中を向けて入口を睨《にら》み立ち列《なら》んでいる。リンデンの街路樹が一日に落葉し暫らく広く見えている伯林の空にやがて雪雲が覆い冠《かぶ》さって来ると古風な酒店の入口にビールの新酒の看板が出る。夜町の鋪道は急に賑い出す。その名ごりの酔いどれの声が十二時過ぎになって断続して消えかかろうとする頃いつも加奈子の家の軒下を乱れた
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