利用するのを許されている国々にこのくらいな植物は探したら無いことはなかろう。蔓から壜《ボットル》がぶら下る瓢箪《ひょうたん》。幹の中に空気の並んだ部屋のある竹。東洋は面白いな。巴里の郊外にも電柱はあったが道筋の家の壁や屋根を借りて取り付けたもので長さも小さく小鬢《こびん》に笄《こうがい》を挿したほどの恰好だ。ヴェルサイユへ行く道の退屈さに自動車の窓から眺めてフランス人の倹約と結びつけて考えて見たものだった。
 湯屋の煙突の煙が吹き下りて来る、不安なにおい。屑《くず》ものを焼くせいだろうか。
 湯屋の内部を想像する。裸体を見られたら腰のまわりはうっちゃって置いても乳房を押える西洋の女。その乳房をみずみずしい果物の熟果《なりもの》のように胸にぶら下げてぷりぷり震わせながら二三人ずつも向き合って身体を洗っている日本のお湯屋の内部の女。女の乳房というものは賑やかなものだ。あれは女の胸にある肉の勲章《くんしょう》だ。女の胸に乳房が無かったらと考えて、もしそうなったら男は女を抱かなくなるだろう。女に逢いに行くことをベルを押しに行くといった若い仏蘭西《フランス》人があった。なるほど乳房はベルに似ている。
 どこかに火事でもありそうな不安なにおい。
 もちろん、それは湯屋の煙突の煙りのにおいだが、米屋の角を出て広い市の電車通りに出ても日本の都特有の不安な気持ちはあの煙のにおいと一脈の連絡を持っているように考えられる。不安な気持ちが揺り動かす日本の都会の若さと溌剌《はつらつ》さ。挨《ほこり》だらけの円タクが加奈子を突倒しでもするように乗りつけて来てブレーキをかけても異様な音と共に一二|寸《すん》乾いた土の上を滑る。
――いかが? どちらまで?」という性急な若者の言葉と、
――否《ノン》、ムッシュウ」と言い馴れた西洋の言葉を出して仕舞って顔を赭《あか》くした加奈子の言葉とが正面衝突をする。
 加奈子とこの円タクとの交渉がまとまらなかったらと、その後に二台、電車線路を越した向うに一台、形の違った円タクが客を奪《と》ろうと隙をねらっている。
 加奈子はショールの下に隠していた提げ菓子皿を持上げて、振って円タクのみんなに「いらない」合図をする、四台の車の窓から四つの鋭い眼が引込んで道路は再び無慈悲な爆音に蹴立てられる。
 この提げ菓子皿の取手《とって》は伊太利《イタリー》フローレンスで買った。ダンテとベアトリーチェがめぐり合ったというアルノー河には冬の霧が一ぱいかかっていた。両側の歩道に店を持つ橋が霧の上にかかっていた。たそがれ。売品の首飾りや耳飾りが簾《すだれ》のように下っている軒の間から爆発したような灯が透けていた。その並び店の中の一軒だった。骨董品《こっとうひん》店があった。もとよりニセ物のビザンチン石彫の破片やエトラスカの土焼皿などもあって外人相手の店には違いないがその列《なら》んだ品物のなかにこの葡萄の蔓模様の鉄の取手があったのに加奈子は心をひかれた。模様の蔓と葉が中世紀特有のしつこく武骨な絡みかたをしていて血でもにじみ出そうで色は黒かった。その時は有り合せの硝子皿に取りつけてあったが外《は》ずして何《ど》の皿の提手《とって》にすることもできた。加奈子はこれを買った。そして、これにつり合う皿を独逸《ドイツ》××会社の硬製陶器から見つけて一つの提げ皿に組立てた。日本へ帰ったら第一にお豆腐を自分で買いに行こう。おそらくあんな古典的な食物はない。お豆腐をこの容物《いれもの》へ入れてわたしの丸い手がこれを提げた姿を気狂いのお京さんに見せてやろう。そしたらお京さんはひょっとしたら悦ぶかも知れない。
 焼芋屋の隣に理髪店があるという平凡な軒並も加奈子には珍らしかった。その筋向うに瓦斯《ガス》器具一切を売る安普請《やすぶしん》の西洋館がある。
 外国に行く四年前まではこの家は地震で曲ったままの古家で薪炭《しんたん》を商《あき》なっていた。薪炭商から瓦斯の道具を売る店へ、文化進展の当然の過程だ。だが椅子へ不釣合いにこどもを抱えて腰かけているおかみさんはもとのおかみさんに違いないが人相はすっかり変っている。前にはただだぶだぶして食べたものが腸でこなれて行くのをみんな喇叭管《らっぱかん》へ吸収して卵子にしてしまう女の作業を何の不思議もなさそうに厚い脂肪で包んでいるおかみさんだった。いまは瘠《や》せてしまって心配そうな太い静脈が額に絡み合っている。亭主の不身持か、世帯の苦労か、産後からひき起した不健康か。一番大きな原因に思えそうなのはもうすっかり命数だけの子供を生んでしまったので、自然から不用を申渡されたからではあるまいか。
 そうなるといままで気がつかなかった不思議さが万物の上に映り出すとみえてあの見廻すキョトキョトした眼付き――おかみさんにはどこか役離れがして
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