靴音で通り過ぎて行く一組がある。五六軒先の荒物屋の母子だ。息子が母親を担《かつ》いでいるときもある。母親が息子を担いでいるときもある。息子が母親に担がれているときは息子が酔いすぎてとてもはしゃいでいる。母親が息子に担がれて帰るときは母親が酔いすぎて大概泣いている。焙《た》き出したばかりの暖炉《オーフェン》の前で加奈子が土の底冷えをしみじみ床を通して感じた独逸《ドイツ》の思い出である。
まだ子供とはいいながら日本人にあとをつけられるのは気味の悪いものだ。これに引きかえ西洋人のつけて来るのはあまい感じがする。西洋では不良男にもフェミニズムが染み込んでいるせいだろうか。加奈子はよく人につけられる性質の女だ。
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――それはあなたの全《すべ》てが普通の人のリズムと違っていて人に目立つからだ」或る友達は笑いながら加奈子に斯《こ》ういった。
――嫌になっちゃう」と加奈子が手足をじたばたさせると友達はそれを指して、
――それそこがもう人並外れのところよ」といった。
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いろいろの経験からついて来る人間に手がかりを与えないのは却ってそれに気を奪われない事だということを加奈子は心得ているので何気なく振舞う為めに続いて町並を点検して行く。
塀にも屋根の上にも一ぱいに専門の皮膚、泌尿科を麗々しく広告している医学博士。負けずに立看板や色垂簾で店を武装している雑誌店。これに気付かされて注意すると日本の町は随分広告の多い町だ。倒した古材木の頭にむしろを冠せたのが覗いている露地口には筍《たけのこ》のように標柱が頭を競っている。小児科の医者、特許弁理士、もう一つ内科呼吸器科の医者、派出婦会、姓名判断の占師、遠慮深くうしろの方から細い首を出して長唄の師匠の標柱が藍色の杵《きね》の紋をつけている。「古土タダアゲマス」屋根に書いて破目《はめ》に打付けてあるその露地へ入って行った女は白足袋《しろたび》の鼠色になった裏がすっかり見えるように吾妻下駄《あずまげた》の上でひっくらかえす歩き方を繰り返して行く。
お京さんがフランス人の夫アンリーから最後に逃げて隠れていたのは丁度こういう露地の中の家だった。二人で町で買物をしてご飯も食べたあと暗くなってお京さんを隠れ家へ送り届けようと、その露地口へ入るときお京さんは痙攣《けいれん》している右の手で胸に十字を切った。なぜと訊くと、
――あの俵《たわら》の冠せてある水溜りをうまく越しますように」といった。そしてもしそれにうっかり踏込みでもするとぷりぷり憤ってまた露地口まで戻って来て、そこで足数を考え合せ露地入りをやり直すのだった。また踏み込む。するといくどでも遣《や》り遂《と》げるまでは強情に繰り返すのだった。しまいには瞳が据《すわ》って鼻の孔《あな》を大きく開けて荒い息をしている顔が軒燈で物凄かった。しかし懐中電燈を買おうと言っても承知しなかった。もうあのとき気が変になっていたのだ。けれども若《も》し首尾よく水溜りを越したとなるとお京さんはふだんの生絹のような女になって後からついて行く加奈子の手を執って無事に跨《また》ぎ越さすのだった。そのとき綺麗な声で、
――アッタンシオンよ」と言った。それから、
――注意よ」という言葉も使った。
お京さんはフランス人の夫を随分愛していた。それ以上にフランス人の夫もお京さんを愛していた。だのになぜお京さんは夫から逃げたのだろう。逃げて気狂いになったのだろう。お京さんは加奈子に水溜りを越さしたあとも加奈子の手を離さず門口まで握って言った。
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――あなたの手を握っていると、ほんとにこころにぴったり来るのよ。あなたの手は皮膚の手袋さえ穿《は》めてないからね。
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左側に板塀がある。雨風に洗い出された木目が蓮華を重ねたように並んでいる。誰か退職官吏の邸らしい。この辺がまだ畑地交りであった時分|廉《やす》い地代ですこし広く買い取って家を建てたのがいつか町中になってしまってうるさくはあるが地価は騰《あが》った。当惑と恭悦を一緒にしたような住居の様子だ。古い母屋《おもや》の角に不承々々に建て増したらしい洋館の棟が見える。一人前になった息子のところへそろそろ客が来るようになったので体裁上必要になったものらしい。ポータブルがロンドンシーメンス会社で参観人へ広告に呉れる小唄を軋《きし》り出している。「明るい燭光の電球をつけましょう。そして、顔を――」どうしてこんな盤が日本へ入って来ているのだろう。此処《ここ》の息子はあの電気会社の取引会社へ勤めでもしているのか。
松が古葉を黄色い茱萸《ぐみ》の花の上へ落している。門の入口に請願巡査の小屋があってそれから道の両側に欅《けや
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