で胸に十字を切った。なぜと訊くと、
――あの俵《たわら》の冠せてある水溜りをうまく越しますように」といった。そしてもしそれにうっかり踏込みでもするとぷりぷり憤ってまた露地口まで戻って来て、そこで足数を考え合せ露地入りをやり直すのだった。また踏み込む。するといくどでも遣《や》り遂《と》げるまでは強情に繰り返すのだった。しまいには瞳が据《すわ》って鼻の孔《あな》を大きく開けて荒い息をしている顔が軒燈で物凄かった。しかし懐中電燈を買おうと言っても承知しなかった。もうあのとき気が変になっていたのだ。けれども若《も》し首尾よく水溜りを越したとなるとお京さんはふだんの生絹のような女になって後からついて行く加奈子の手を執って無事に跨《また》ぎ越さすのだった。そのとき綺麗な声で、
――アッタンシオンよ」と言った。それから、
――注意よ」という言葉も使った。
 お京さんはフランス人の夫を随分愛していた。それ以上にフランス人の夫もお京さんを愛していた。だのになぜお京さんは夫から逃げたのだろう。逃げて気狂いになったのだろう。お京さんは加奈子に水溜りを越さしたあとも加奈子の手を離さず門口まで握って言った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――あなたの手を握っていると、ほんとにこころにぴったり来るのよ。あなたの手は皮膚の手袋さえ穿《は》めてないからね。
[#ここで字下げ終わり]

 左側に板塀がある。雨風に洗い出された木目が蓮華を重ねたように並んでいる。誰か退職官吏の邸らしい。この辺がまだ畑地交りであった時分|廉《やす》い地代ですこし広く買い取って家を建てたのがいつか町中になってしまってうるさくはあるが地価は騰《あが》った。当惑と恭悦を一緒にしたような住居の様子だ。古い母屋《おもや》の角に不承々々に建て増したらしい洋館の棟が見える。一人前になった息子のところへそろそろ客が来るようになったので体裁上必要になったものらしい。ポータブルがロンドンシーメンス会社で参観人へ広告に呉れる小唄を軋《きし》り出している。「明るい燭光の電球をつけましょう。そして、顔を――」どうしてこんな盤が日本へ入って来ているのだろう。此処《ここ》の息子はあの電気会社の取引会社へ勤めでもしているのか。
 松が古葉を黄色い茱萸《ぐみ》の花の上へ落している。門の入口に請願巡査の小屋があってそれから道の両側に欅《けや
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