東海道五十三次
岡本かの子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)殊《こと》に
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)あべ川|餅屋《もちや》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)たもと[#「たもと」に傍点]
−−
風俗史専攻の主人が、殊《こと》に昔の旅行の風俗や習慣に興味を向けて、東海道に探査の足を踏み出したのはまだ大正も初めの一高の生徒時代だったという。私はその時分のことは知らないが大学時代の主人が屡々《しばしば》そこへ行くことは確《たしか》に見ていたし、一度などは私も一緒に連れて行って貰《もら》った。念の為め主人と私の関係を話して置くと、私の父は幼時に維新の匆騒《そうそう》を越えて来たアマチュアの有職故実《ゆうそくこじつ》家であったが、斯道《しどう》に熱心で、研究の手傅《てだす》けのため一人娘の私に絵画を習わせた。私は十六七の頃にはもう濃く礬水《どうさ》をひいた薄美濃紙を宛《あ》てがって絵巻物の断片を謄《す》き写しすることも出来たし、残存の兜《かぶと》の錣《しころ》を、比較を間違えず写生することも出来た。だが、自分の独創で何か一枚画を描いてみようとなるとそれは出来なかった。
主人は父の邸《やしき》へ出入りする唯一の青年といってよかった。他に父が交際している人も無いことはなかったが、みな中年以上か老人であった。その頃は「成功」なぞという言葉が特に取出されて流行し、娘たちはハイカラ髷《まげ》という洋髪を結《ゆ》っている時代で虫食いの図書遺品を漁《あさ》るというのはよくよく向きの変った青年に違いなかった。けれども父は
「近頃、珍らしい感心な青年だ」と褒《ほ》めた。
主人は地方の零落《れいらく》した旧家の三男で、学途には就《つ》いたものの、学費の半《なかば》以上は自分で都合しなければならなかった。主人は、好きな道を役立てて歌舞伎の小道具方の相談相手になり、デパートの飾人形の衣裳を考証してやったり、それ等から得る多少の報酬で学費を補っていた。かなり生活は苦しそうだったが、服装はきちんとしていた。
「折角《せっかく》の学問の才を切れ端にして使い散らさないように――」
と始終忠告していた父が、その実意からしても死ぬ少し前、主人を養子に引取って永年苦心の蒐集《しゅうしゅう》品と、助手の私を主人に譲ったのは道理である。
私が主人に連れられて東海道を始めてみたのは結婚の相談が纏《まと》まって間もない頃である。
今まで友だち附合いの青年を、急に夫として眺めることは少し窮屈で擽《こそ》ばゆい気もしたが、私には前から幾分そういう予感が無いわけでもなかった。狭い職分や交際範囲の中に同じような空気を呼吸して来た若い男女が、どのみち一組になりそうなことは池の中の魚のように本能的に感じられるものである。私は照れるようなこともなく言葉もそう改めず、この旅でも、ただ身のまわりの世話ぐらいは少し遠慮を除けてしてあげるぐらいなものであった。
私たちは静岡駅で夜行汽車を降りた。すぐ駅の俥《くるま》を雇って町中を曳《ひ》かれて行くと、ほのぼの明けの靄《もや》の中から大きな山葵《わさび》漬の看板や鯛《たい》のでんぶの看板がのそっと額の上に現われて来る。旅慣れない私はこころの弾《はず》む思いがあった。
まだ、戸の閉っている二軒のあべ川|餅屋《もちや》の前を通ると直ぐ川瀬の音に狭霧《さぎり》を立てて安倍川が流れている。轍《わだち》に踏まれて躍る橋板の上を曳かれて行くと、夜行で寝不足の瞼《まぶた》が涼しく拭われる気持がする。
町ともつかず村ともつかない鄙《ひな》びた家並がある。ここは重衡《しげひら》の東下りのとき、鎌倉で重衡に愛された遊女|千手《せんじゅ》の前の生れた手越《たごし》の里だという。重衡、斬られて後、千手は尼となって善光寺に入り、歿したときは二十四歳。こういう由緒を簡単に、主人は前の俥から話し送って呉れる。そういえば山門を向き合って双方、名|灸所《きゅうしょ》と札をかけている寺など何となく古雅なものに見られるような気がして来た私は、気を利《き》かして距離を縮めてゆるゆる走って呉れる俥の上から訊《き》く。
「むかしの遊女はよく貞操的な恋愛をしたんですわね」
「みんなが、みんなそうでもあるまいが、――その時分に貴賓《きひん》の前に出るような遊女になると相当生活の独立性が保てたし、一つは年齢の若い遊女にそういうロマンスが多いですね」
「じゃ、千手もまだ重衡の薄倖《はっこう》な運命に同情できるみずみずしい情緒のある年頃だったというわけね」
「それにね、当時の鎌倉というものは新興都市には違いないが、何といっても田舎で文化に就《つい》ては何かと京都をあこがれている。三代の実朝《さねとも》時代になってもまだそんなふうだったから、この時代の鎌倉の千手の前が都会風の洗練された若い公達《きんだち》に会って参ったのだろうし、多少はそういう公達を恋の目標にすることに自分自身誇りを感じたのじゃないでしょうか」
私はもう一度、何となく手越の里を振返った。
私と主人はこういう情愛に関係する話はお互いの間は勿論《もちろん》、現代の出来事を話題としても決して話したことはない。そういうことに触れるのは私たちのような好古家の古典的な家庭の空気を吸って来たものに取っては、生々しくて、或る程度の嫌味にさえ感じた。ただ歴史の事柄を通しては、こういう風にたまには語り合うことはあった。それが二人の間に幾らか温かい親しみを感じさせた。
如何《いか》にも街道という感じのする古木の松並木が続く。それが尽きるとぱっと明るくなって、丸い丘が幾つも在る間の開けた田畑の中の道を俥は速力を出した。小さい流れに板橋の架かっている橋のたもと[#「たもと」に傍点]の右側に茶店風の藁屋《わらや》の前で俥は梶棒を卸《おろ》した。
「はい。丸子へ参りました」
なるほど障子《しょうじ》に名物とろろ汁、と書いてある。
「腹が減ったでしょう。ちょっと待ってらっしゃい」
そういって主人は障子を開けて中へ入った。
それは多分、四月も末か、五月に入ったとしたら、まだいくらも経たない時分と記憶する。
静岡辺は暖かいからというので私は薄着の綿入れで写生帳とコートは手に持っていた。そこら辺りにやしお[#「やしお」に傍点]の花が鮮《あざやか》に咲き、丸味のある丘には一面茶の木が鶯餅《うぐいすもち》を並べたように萌黄《もえぎ》の新芽で装われ、大気の中にまでほのぼのとした匂いを漂わしていた。
私たちは奥座敷といっても奈良漬色の畳にがたがた障子の嵌《はま》っている部屋で永い間とろろ汁が出来るのを待たされた。少し細目に開けた障子の隙間から畑を越して平凡な裏山が覗かれる。老鶯《ろうおう》が鳴く。丸子の宿の名物とろろ汁の店といってももうそれを食べる人は少ないので、店はただの腰掛け飯屋になっているらしく耕地測量の一行らしい器械を携《たずさ》えた三四名と、表に馬を繋いだ馬子《まご》とが、消し残しの朝の電燈の下で高笑いを混えながら食事をしている。
主人は私に退屈させまいとして懐《ふところ》から東海道|分間《ぶんま》図絵を出して頁をへぐって説明して呉れたりした。地図と鳥瞰図《ちょうかんず》の合の子のようなもので、平面的に書き込んである里程や距離を胸に入れながら、自分の立つ位置から右に左に見ゆる見当のまま、山や神社仏閣や城が、およそその見ゆる形に側面の略図を描いてある。勿論、改良美濃紙の復刻本であったが、原図の菱川師宣《ひしかわもろのぶ》のあの暢艶《ちょうえん》で素雅な趣《おもむき》はちらりちらり味えた。しかし、自然の実感というものは全くなかった。
「昔の人間は必要から直接に発明したから、こんな便利で面白いものが出来たんですね。つまり観念的な理窟に義理立てしなかったから――今でもこういうものを作ったら便利だと思うんだが」
はじめ、かなり私への心遣《こころづか》いで話しかけているつもりでも、いつの間にか自分独りだけで古典思慕に入り込んだ独《ひと》り言《ごと》になっている。好古家の学者に有り勝ちなこの癖を始終私は父に見ているのであまり怪しまなかったけれども、二人で始めての旅で、殊にこういう場所で待たされつつあるときの相手の態度としては、寂しいものがあった。私は気を紛《まぎ》らす為めに障子を少し開けひろげた。
午前の陽は流石《さすが》に眩《まぶ》しく美しかった。老婢が「とろろ汁が出来ました」と運んで来た。別に変った作り方でもなかったが、炊《た》き立ての麦飯の香ばしい湯気に神仙の土のような匂いのする自然薯《じねんじょ》は落ち付いたおいしさがあった。私は香りを消さぬように薬味の青|海苔《のり》を撒《ふ》らずに椀《わん》を重ねた。
主人は給仕をする老婢に「皆川老人は」「ふじのや連は」「歯磨き屋は」「彦七は」と妙なことを訊《き》き出した。老婢はそれに対して、消息を知っているのもあるし知らないのもあった。話の様子では、この街道を通りつけの諸職業の旅人であるらしかった。主人が「作楽井《さくらい》さんは」と訊くと
「あら、いま、さきがた、この前を通って行かれました。あなた等も峠《とうげ》へかかられるなら、どこかでお逢いになりましょう」
と答えた。主人は
「峠へかかるにはかかるが、廻り道をするから――なに、それに別に会い度《た》いというわけでもないし」
と話を打ち切った。
私たちが店を出るときに、主人は私に「この東海道には東海道人種とでも名付くべき面白い人間が沢山《たくさん》いるんですよ」と説明を補足した。
細道の左右に叢々たる竹藪が多くなってやがて、二つの小峯が目近く聳《そび》え出した。天柱山に吐月峰《とげっぽう》というのだと主人が説明した。私の父は潔癖家で、毎朝、自分の使う莨盆《たばこぼん》の灰吹を私に掃除させるのに、灰吹の筒の口に素地《きじ》の目が新しく肌を現すまで砥石《といし》の裏に何度も水を流しては擦《す》らせた。朝の早い父親は、私が眠い目を我慢して砥石で擦って持って行く灰吹を、座敷に坐り煙管《きせる》を膝に構えたまま、黙って待っている。私は気が気でなく急いで持って行くと、父は眉を皺《しわ》めて、私に戻す。私はまた擦り直す。その時逆にした灰吹の口に近く指に当るところに磨滅した烙印《らくいん》で吐月峰と捺《お》してあるのがいつも眼についた。春の陽ざしが麗《うら》らかに拡がった空のような色をした竹の皮膚にのんき[#「のんき」に傍点]に据《すわ》っているこの意味の判らない書体を不機嫌な私は憎らしく思った。
灰吹の口が奇麗に擦れて父の気に入ったときは、父は有難うと言ってそれを莨盆にさし込み、煙管を燻《くゆ》らしながら言った。
「おかげでおいしい朝の煙草が一服吸える」
父はそこで私に珍らしく微笑《ほほえ》みかけるのであった。
母の歿したのちは男の手一つで女中や婆あやや書生を使い、私を育てて来た父には生甲斐《いきがい》として考証詮索の楽しみ以外には無いように見えたが、やはり寂しいらしかった。だが、情愛の発露の道を知らない昔人はどうにも仕方なかったらしい。掃き浄めた朝の座敷で幽寂閑雅な気分に浸る。それが唯一の自分の心を開く道で、この機会に於てのみ娘に対しても素直な愛情を示す微笑も洩《も》らせた。私は物ごころついてから父を憐れなものに思い出して来て、出来るだけ灰吹を奇麗に掃除してあげることに努めた。そして灰吹に烙印してある吐月峰という文字にも、何かそういった憐れな人間の息抜きをする意味のものが含まれているのではないかと思うようになった。
父は私と主人との結婚話が決まると、その日から灰吹掃除を書生に代ってやらせた。私は物足らなく感じて「してあげますわ」と言っても「まあいい」と言ってどうしてもやらせなかった。参考の写生や縮写もやらせなくなった。恐らく、娘はもう養子のものと譲った気持ちからであろう。私は昔風な父のあまりに律儀な意地強さにちょっと暗涙《あんるい》を
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング