催したのであった。

 まわりの円味がかった平凡な地形に対して天柱山と吐月峰は突兀《とっこつ》として秀でている。けれども矗《ちく》とか峻《しゅん》とかいう峙《そばだ》ちようではなく、どこまでも撫《な》で肩《がた》の柔かい線である。この不自然さが二峰を人工の庭の山のように見せ、その下のところに在る藁葺《わらぶき》の草堂|諸共《もろとも》、一幅の絵になって段々近づいて来る。
 柴の門を入ると瀟洒《しょうしゃ》とした庭があって、寺と茶室と折衷《せっちゅう》したような家の入口にさびた[#「さびた」に傍点]聯《れん》がかかっている。聯の句は
[#ここから2字下げ]
幾若葉はやし初の園の竹
山桜思ふ色添ふ霞《かすみ》かな
[#ここで字下げ終わり]
 主人は案内を知っていると見え、柴折戸《しおりど》を開けて中庭へ私を導き、そこから声をかけながら庵《いおり》の中に入った。一室には灰吹を造りつつある道具や竹材が散らばっているだけで人はいなかった。
 主人は関わずに中へ通り、棚に並べてある宝物に向って、私にこれを写生しとき給えと命じた。それは一休の持ったという鉄鉢《てっぱつ》と、頓阿弥《とんあみ》の作ったという人丸の木像であった。
 私が、矢立《やたて》の筆を動かしていると、主人はそこらに転がっていた出来損じの新らしい灰吹を持って来て巻煙草を燻らしながら、ぽつぽつ話をする。
 この庵の創始者の宗長《そうちょう》は、連歌は宗祇《そうぎ》の弟子で禅は一休に学んだというが、連歌師としての方が有名である。もと、これから三つ上の宿の島田の生れなので、晩年、斎藤加賀守の庇護《ひご》を受け、京から東に移った。そしてここに住みついた。庭は銀閣寺のものを小規模ながら写してあるといった。
「室町も末になって、乱世の間に連歌なんという閑文字が弄《もてあそ》ばれたということも面白いことですが、これが東国の武士の間に流行《はや》ったのは妙ですよ。都から連歌師が下って来ると、最寄《もより》々々の城から招いて連歌一座所望したいとか、発句《ほっく》一首ぜひとか、而《しか》もそれがあす[#「あす」に傍点]合戦に出かける前日に城内から所望されたなどという連歌師の書いた旅行記がありますよ。日本人は風雅に対して何か特別の魂を持ってるんじゃないかな」
 連歌師の中にはまた職掌《しょくしょう》を利用して京都方面から関東へのスパイや連絡係を勤めたものもあったというから幾分その方の用事もあったには違いないが、太田|道灌《どうかん》はじめ東国の城主たちは熱心な風雅擁護者で、従って東海道の風物はかなり連歌師の文章で当時の状況が遺《のこ》されていると主人は語った。
 私はそれよりも宗長という連歌師が東国の広漠たる自然の中に下ってもなお廃残の京都の文化を忘れ兼ね、やっとこの上方《かみがた》の自然に似た二つの小峰を見つけ出してその蔭に小さな蝸牛《かたつむり》のような生活を営んだことを考えてみた。少女の未練のようなものを感じていじらしかった。で、立去り際にもう一度、銀閣寺うつしという庭から天柱、吐月の二峰をよく眺め上げようと思った。
 主人は新らしい灰吹の中へなにがし[#「なにがし」に傍点]かの志の金を入れて、工作部屋の入口の敷居に置き
「万事灰吹で間に合せて行く。これが禅とか風雅というものかな」
 と言って笑った。
「さあ、これからが宇津《うつ》の谷《や》峠。業平《なりひら》の、駿河《するが》なるうつの山辺のうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり、あの昔の宇都の山ですね。登りは少し骨が折れましょう。持ちものはこっちへお出しなさい。持っててあげますから」
 鉄道の隧道《すいどう》が通っていて、折柄、通りかかった汽車に一度現代の煙を吐きかけられた以後は、全く時代とは絶縁された峠の旧道である。左右から木立の茂った山の崖裾の間をくねって通って行く道は、ときどき梢の葉の密閉を受け、行手が小暗くなる。そういうところへ来ると空気はひやりとして、右側に趨《はし》っている瀬川の音が急に音を高めて来る。何とも知れない鳥の声が、瀬戸物の破片を擦り合すような鋭い叫声を立てている。
 私は芝居で見る黙阿弥《もくあみ》作の「蔦紅葉宇都谷峠《つたもみじうつのやとうげ》」のあの文弥殺しの場面を憶い起して、婚約中の男女の初旅にしては主人はあまりに甘くない舞台を選んだものだと私は少し脅《おび》えながら主人のあとについて行った。
 主人はときどき立停まって「これどきなさい」と洋傘で弾ねている。大きな蟇《がま》が横腹の辺に朽葉を貼りつけて眼の先に蹲《うずくま》っている。私は脅えの中にも主人がこの旧峠道にかかってから別人のように快活になって顔も生々して来たのに気付かないわけには行かなかった。洋傘を振り腕を拡げて手に触れる熊笹を毟《むし》って行く。それは少年のような身軽さでもあり、自分の持地に入った園主のような気儘《きまま》さでもある。そしてときどき私に
「いいでしょう、東海道は」
 と同感を強いた。私は
「まあね」と答えるより仕方がなかった。
 ふと、私は古典に浸る人間には、どこかその中からロマンチックなものを求める本能があるのではあるまいかなど考えた。あんまり突如として入った別天地に私は草臥《くたび》れるのも忘れて、ただ、せっせと主人について歩いて行くうちどのくらいたったか、ここが峠だという展望のある平地へ出て、家が二三軒ある。
「十団子《とおだご》も小粒になりぬ秋の風という許六《きょろく》の句にあるその十団子《とおだんご》を、もとこの辺で売ってたのだが」
 主人はそう言いながら、一軒の駄菓子ものを並べて草鞋《わらじ》など吊ってある店先へ私を休ませた。
 私たちがおかみさんの運んで来た渋茶を飲んでいると、古障子を開けて呉絽《ごろ》の羽織を着た中老の男が出て来て声をかけた。
「いよう、珍らしいところで逢った」
「や、作楽井《さくらい》さんか、まだこの辺にいたのかね。もっとも、さっき丸子では峠にかかっているとは聞いたが」
 と主人は応《こた》える。
「坂の途中で、江尻へ忘れて来た仕事のこと思い出してさ。帰らなきゃなるまい。いま、奥で一ぱい飲みながら考えていたところさ」
 中老の男はじろじろ私を見るので主人は正直に私の身元を紹介した。中老の男は私には丁寧《ていねい》に
「自分も絵の端くれを描きますが、いや、その他、何やかや八百屋でして」
 男はちょっと軒端《のきば》から空を見上げたが
「どうだ、日もまだ丁度ぐらいだ。奥で僕と一ぱいやってかんかね。昼飯も食うてったらどうです」
 と案内顔に奥へ入りかけた。主人は青年ながら家で父と晩酌を飲む口なので、私の顔をちょっと見た。私は作楽井というこの男の人なつかしそうな眼元を見ると、反対するのが悪いような気がしたので
「私は構いませんわ」と言った。
 粗壁の田舎家の奥座敷で主人と中老の男の盃の献酬がはじまる。裏の障子を開けた外は重なった峯の岨《そば》が見開きになって、その間から遠州の平野が見晴せるのだろうが濃い霞が澱《よど》んでかかり、金色にやや透けているのは菜の花畑らしい。覗きに来る子供を叱りながらおかみさんが斡旋《あっせん》する。私はどこまで旧時代の底に沈ませられて行くか多少の不安と同時に、これより落着きようもない静な気分に魅せられて、傍で茹《ゆ》で卵など剥《む》いていた。
「この間、島田で、大井川の川越しに使った蓮台を持ってる家を見付けた。あんたに逢ったら教えて上げようと思って――」
 それから、酒店のしるしとして古風に杉の玉を軒に吊っている家が、まだ一軒石部の宿に残っていることやら、お伊勢参りの風俗や道中唄なら関の宿の古老に頼めば知っていて教えて呉れることだの、主人の研究の資料になりそうなことを助言していたが、私の退屈にも気を配ったと見え
「奥さん、この東海道というところは一度や二度来てみるのは珍らしくて目保養にもなっていいですが、うっかり嵌《はま》り込んだら抜けられませんぜ。気をつけなさいまし」
 嵌り込んだら最後、まるで飴《あめ》にかかった蟻のようになるのであると言った。
「そう言っちゃ悪いが、御主人なぞもだいぶ足を粘り取られてる方だが」
 酒は好きだがそう強くはない性質らしく、男は赭《あか》い顔に何となく感情を流露《りゅうろ》さす声になった。
「この東海道というものは山や川や海がうまく配置され、それに宿々がいい工合《ぐあい》な距離に在って、景色からいっても旅の面白味からいっても滅多に無い道筋だと思うのですが、しかしそれより自分は五十三次が出来た慶長頃から、つまり二百七十年ばかりの間に幾百万人の通った人間が、旅というもので甞《な》める寂しみや幾らかの気散じや、そういったものが街道の土にも松並木にも宿々の家にも浸み込んでいるものがある。その味が自分たちのような、情味に脆《もろ》い性質の人間を痺《しび》らせるのだろうと思いますよ」
 強《し》いて同感を求めるような語気でもないから、私は何とも返事しようがない気持をただ微笑に現して頷《うなず》いてだけいた。すると作楽井は独り感に入ったように首を振って
「御主人は、よく知ってらっしゃるが、考えてみれば自分なぞは――」
 と言って、身の上話を始めるのであった。
 家は小田原在に在る穀物商で、妻も娶《めと》り兄妹三四人の子供もできたのだが、三十四の歳にふと商用で東海道へ足を踏み出したのが病みつきであった。それから、家に腰が落着かなくなった。ここの宿を朝立ちして、晩はあの宿に着こう。その間の孤独で動いて行く気持、前に発《た》った宿には生涯二度と戻るときはなく、行き着く先の宿は自分の目的の唯一のものに思われる。およそ旅というものにはこうした気持は附きものだが、この東海道ほどその感を深くさせる道筋はないと言うのである。それは何度通っても新らしい風物と新らしい感慨にいつも自分を浸すのであった。ここから東の方だけ言っても
 程ヶ谷と戸塚の間の焼餅坂に権太坂
 箱根旧街道
 鈴川、松並木の左富士
 この宇津の谷
 こういう場所は殊にしみじみさせる。西の方には尚多いと言った。
 それに不思議なことはこの東海道には、京へ上るという目的意識が今もって旅人に働き、泊り重ねて大津へ着くまでは緊張していて常にうれしいものである。だが、大津へ着いたときには力が落ちる。自分たちのような用事もないものが京都へ上ったとて何になろう。
 そこで、また、汽車で品川へ戻り、そこから道中|双六《すごろく》のように一足一足、上りに向って足を踏み出すのである。何の為めに? 目的を持つ為めに。これを近頃の言葉では何というのでしょうか。憧憬、なるほど、その憧憬を作る為めに。
 自分が再々家を空けるので、妻は愛想を尽かしたのも無理はない。妻は子供を連れたまま実家へ引取った。実家は熱田附近だがそう困る家でもないので、心配はしないようなものの、流石《さすが》にときどきは子供に学費ぐらいは送ってやらなければならぬ。
 作楽井は器用な男だったので、表具やちょっとした建具左官の仕事は出来る。自分で襖《ふすま》を張り替えてそれに書や画もかく。こんなことを生業《なりわい》として宿々に知り合いが出来るとなおこの街道から脱けられなくなり、家を離散さしてから二十年近くも東海道を住家として上り下りしていると語った。
「こういう人間は私一人じゃありませんよ。お仲間がだいぶありますね」
 やがて
「これから大井川あたりまでご一緒に連れ立って、奥さんを案内してあげたいんだが何しろ忘れて来た用事というのが壁の仕事でね、乾き工合もあるので、これから帰りましょう。まあ、御主人がついてらっしゃれば、たいがいの様子はご存じですから」
 私たちは簡単な食事をしたのち、作楽井と西と東に訣《わか》れた。暗い隧道がどこかに在ったように思う。
 私たちはそれから峠《とうげ》を下った。軒の幅の広い脊の低い家が並んでいる岡部の宿へ出た。茶どきと見え青い茶が乾してあったり、茶師の赤銅色の裸体が燻《くす》んだ色の町に目立っていた。私たちは藤枝の宿で、熊
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