足した。
細道の左右に叢々たる竹藪が多くなってやがて、二つの小峯が目近く聳《そび》え出した。天柱山に吐月峰《とげっぽう》というのだと主人が説明した。私の父は潔癖家で、毎朝、自分の使う莨盆《たばこぼん》の灰吹を私に掃除させるのに、灰吹の筒の口に素地《きじ》の目が新しく肌を現すまで砥石《といし》の裏に何度も水を流しては擦《す》らせた。朝の早い父親は、私が眠い目を我慢して砥石で擦って持って行く灰吹を、座敷に坐り煙管《きせる》を膝に構えたまま、黙って待っている。私は気が気でなく急いで持って行くと、父は眉を皺《しわ》めて、私に戻す。私はまた擦り直す。その時逆にした灰吹の口に近く指に当るところに磨滅した烙印《らくいん》で吐月峰と捺《お》してあるのがいつも眼についた。春の陽ざしが麗《うら》らかに拡がった空のような色をした竹の皮膚にのんき[#「のんき」に傍点]に据《すわ》っているこの意味の判らない書体を不機嫌な私は憎らしく思った。
灰吹の口が奇麗に擦れて父の気に入ったときは、父は有難うと言ってそれを莨盆にさし込み、煙管を燻《くゆ》らしながら言った。
「おかげでおいしい朝の煙草が一服吸える」
父は
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