い。持っててあげますから」
鉄道の隧道《すいどう》が通っていて、折柄、通りかかった汽車に一度現代の煙を吐きかけられた以後は、全く時代とは絶縁された峠の旧道である。左右から木立の茂った山の崖裾の間をくねって通って行く道は、ときどき梢の葉の密閉を受け、行手が小暗くなる。そういうところへ来ると空気はひやりとして、右側に趨《はし》っている瀬川の音が急に音を高めて来る。何とも知れない鳥の声が、瀬戸物の破片を擦り合すような鋭い叫声を立てている。
私は芝居で見る黙阿弥《もくあみ》作の「蔦紅葉宇都谷峠《つたもみじうつのやとうげ》」のあの文弥殺しの場面を憶い起して、婚約中の男女の初旅にしては主人はあまりに甘くない舞台を選んだものだと私は少し脅《おび》えながら主人のあとについて行った。
主人はときどき立停まって「これどきなさい」と洋傘で弾ねている。大きな蟇《がま》が横腹の辺に朽葉を貼りつけて眼の先に蹲《うずくま》っている。私は脅えの中にも主人がこの旧峠道にかかってから別人のように快活になって顔も生々して来たのに気付かないわけには行かなかった。洋傘を振り腕を拡げて手に触れる熊笹を毟《むし》って行く。そ
前へ
次へ
全32ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング