という人丸の木像であった。
 私が、矢立《やたて》の筆を動かしていると、主人はそこらに転がっていた出来損じの新らしい灰吹を持って来て巻煙草を燻らしながら、ぽつぽつ話をする。
 この庵の創始者の宗長《そうちょう》は、連歌は宗祇《そうぎ》の弟子で禅は一休に学んだというが、連歌師としての方が有名である。もと、これから三つ上の宿の島田の生れなので、晩年、斎藤加賀守の庇護《ひご》を受け、京から東に移った。そしてここに住みついた。庭は銀閣寺のものを小規模ながら写してあるといった。
「室町も末になって、乱世の間に連歌なんという閑文字が弄《もてあそ》ばれたということも面白いことですが、これが東国の武士の間に流行《はや》ったのは妙ですよ。都から連歌師が下って来ると、最寄《もより》々々の城から招いて連歌一座所望したいとか、発句《ほっく》一首ぜひとか、而《しか》もそれがあす[#「あす」に傍点]合戦に出かける前日に城内から所望されたなどという連歌師の書いた旅行記がありますよ。日本人は風雅に対して何か特別の魂を持ってるんじゃないかな」
 連歌師の中にはまた職掌《しょくしょう》を利用して京都方面から関東へのスパイ
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