ら持ち越した病気が氏をなやませ続けている噂《うわさ》もまんざら嘘《うそ》では無いらしい。氏は時々自分の長髪を掻《か》きむしる。そして一二本の毛を指に摘んで自分の眼に寄せて見る癖が出来て居るらしい。私もたしか一二度その癖を見たような覚えがあり、今夜のように氏に対する崇拝心から愛惜の心が昂《たか》ぶって来ると、しみじみ氏の健康について云って見度い気になるのであった。
 某日。――まだみんなが寝て居るうち、H屋の門を抜け出て、一人で朝の散歩に出た。自分|乍《なが》ら、こんなことは珍らしいと思い乍ら、唐黍畑《とうきびばたけ》の傍を歩いて居ると停車場の方から、麻川氏がこっちへ歩いて来る。黒っぽい絽《ろ》の羽織の着流し姿で小さいケースを携げて居る。真新らしい夏帽子も他所行《よそいき》らしく光っている。私に近づいた氏は、「やあ。」と咽喉《のど》に引き込んだような声で笑って、「僕、東京へ行って来ました。昨夜、おそく思い立ったんで御挨拶《ごあいさつ》もしないで出かけましたが。」私「そして、こんなに早くお宅を出ていらしったんですか。」氏は一寸まごついたような様子だったが「いや、家へ帰りませんでした。Xステ
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