だ。私達は話し乍ら星を仰ぎ勝ちだった。「僕、さっき、一寸おもい付いたんだが、あなたにこんな歌がありませんでしたか……大都市東京の憂愁を集めて流す為めか灰色に流れる隅田川は……とかいうの。」私「ええ。ずっと子供のうち下町の生活を暫《しばら》くしてましたの。その時期にあの辺の都会的憂愁が身にしみたんですの。」麻川氏「あなたは大たい憂愁家ですね。つき合って僕は気がひきしまる。それに坂本さんもあんなに好い人だし、僕鎌倉へ来て好かったかな。」私「けむたがられたことも私達ありましたのね。」麻川氏「あははは……。」私「でもよく私達の隣へ越していらっしゃいましたわ。」麻川氏「でも、僕の方が先へ借りてたんだもの……それに僕は気が変り易いから。」従妹が突然太い声を出して「私ね東京って云えば直《す》ぐに青山御所を思い出すっきりよ。」と云ったので話はまたあとへ戻った。麻川氏「あはは……それも単純で好いな……僕なんか本所育ちで、本所の大どぶに浮いた泡のようなもんですよ。」従妹「あらいやだ。」麻川氏「そうですよ、ああそうですとも(私に向いて)どうもね、直きぶくぶくと消えて行きそうですよ。」私「星を見乍らそんなことを考えていらっしったんですか。」麻川氏「要するに、こんないいかげんな世の中に、儚《はか》ない生死の約束なんかに支配されて、人間なんか下らないみじめな生物なんだ。物質の分配がどうだの、理想がどうだの、何イズムだのと陰に陽にお祭り騒ぎして居るけれど、人間なんて、本当の処は桶《おけ》の底のウジのようにうごめき暮らして居る惨《みじめ》な生物に過ぎないんですな。」私「そうですね。でも、そういう風に思い詰めるどんづまりに、また反撥心《はんぱつしん》も起って、お祭騒ぎや、主義や理想も立て度《た》くなるんじゃないのですか。どっちも人間の本当のところじゃありませんか。」氏「生死の問題に就《つ》いてあなたは何う思いますか。」私「死は生の或る時期からの変態で、生は死の或る時期以前の変態というようにも考えるし、また、まるまる別個のようにも考えますわ。」氏「というと、生死一如でもあり、また全々生死は聯絡《れんらく》のないものとも考えるんですな。」私「ええ。」氏「願くばどっちかに片づけ度いもんですね。」私「仕方が無いからさしあたりどちらか私達をより以上に強く支配する観念の方へ就くんですね。」氏「僕は生死一如とは考えない。死はどこまでも生の壊滅後に来る暗黒世界だと、観念の眼を閉じて居るけれど、たった一つ残す自分の仕事によって、死後の自分と、現在との聯絡はとれるものだと思ってますな。」私「私もそう考えたことがありました。しかし、今は、かなり違って来ました。私達の肉体に籠《こも》るエネルギーは死によって物質的に変化し宇宙間の実在要素としてこの宇宙以外一歩も去らずに残るかもしれませんが、それ以上の個性とか、精神とか、つまり現象的な存在は全々消失して仕舞うから生存中の自己の現象的な産物の仕事なんかは、死後に全々消失する個性的な自己というものに、何の関係もありはしない……あると思うのは、あとのこの世に残った人達の観察に過ぎないんでしょう……。」氏「一寸《ちょっと》待って下さい、あなたはそんな風に考えて淋しいとは思いませんか。少くとも、あなたのような感情家が。」私「淋しいと思い、そして私が感情家だから、なおそんな処まで考え抜いちまったんですよ。」氏「判りました。あなたが怒りんぼうのくせに、じき優しくなるのも、そんな思考の曲折や、性格の変化があなたにあるからですな。」私「そうでしょうか。私なんか煩悩《ぼんのう》だらけで、とても、ものごとを単純に考えて、晏如《あんじょ》として居られないんです。そのくせ性格の半面は、とても単純でのん気千万のくせに。」すると従妹《いとこ》が突然「それが好いわよ。」と妙なしめくくりをつけたので、私はちぐはぐな気持ちになって黙って仕舞った。麻川氏は私達の側から立って今一つあいている長方形の涼み台の上に仰向《あおむ》けになった。八月下旬に近く、虫がしんとした遠近の草むらで啼《な》いている。麻川氏の端正な顔が星明りのなかでデスマスクの様に寂然と見える。ひょっとしたら、尖《とが》った鼻先から氏の体が、見る見る白骨に化して行くのでは無いかと思われてぞっとした。そして、私のそのかすかな身ぶるいのなかを氏の作品の「羅生門」の凄惨《せいさん》や「地獄変」の怪美や「奉教人の死」の幻想が逸早《いちはや》く横切った。私はそれ等諸作の追憶から湧《わ》き上る氏への崇拝の心を籠《こ》めて、「とにかくお体を大切になさいまし。」と平常ならば恥かしいような改まった口調で云った。先年主人が戯画に描いて氏を不愉快にしたのも其処から文学世界の記者川田氏が材料を持って来たのであるが、その後も氏が支那旅行か
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