ら持ち越した病気が氏をなやませ続けている噂《うわさ》もまんざら嘘《うそ》では無いらしい。氏は時々自分の長髪を掻《か》きむしる。そして一二本の毛を指に摘んで自分の眼に寄せて見る癖が出来て居るらしい。私もたしか一二度その癖を見たような覚えがあり、今夜のように氏に対する崇拝心から愛惜の心が昂《たか》ぶって来ると、しみじみ氏の健康について云って見度い気になるのであった。
某日。――まだみんなが寝て居るうち、H屋の門を抜け出て、一人で朝の散歩に出た。自分|乍《なが》ら、こんなことは珍らしいと思い乍ら、唐黍畑《とうきびばたけ》の傍を歩いて居ると停車場の方から、麻川氏がこっちへ歩いて来る。黒っぽい絽《ろ》の羽織の着流し姿で小さいケースを携げて居る。真新らしい夏帽子も他所行《よそいき》らしく光っている。私に近づいた氏は、「やあ。」と咽喉《のど》に引き込んだような声で笑って、「僕、東京へ行って来ました。昨夜、おそく思い立ったんで御挨拶《ごあいさつ》もしないで出かけましたが。」私「そして、こんなに早くお宅を出ていらしったんですか。」氏は一寸まごついたような様子だったが「いや、家へ帰りませんでした。Xステーションホテルに泊りました。」私「そして、直《す》ぐ引返していらしったんですか。」氏「あんまり遅く家の者共を、驚かしてはいけないと思って、昨夜はホテルへ泊り、今日あっちこっちの本屋へ行って金でも集めて、一たん家へ帰ってからまたこっちへ来ようと思ったんですけど、今朝起きたら面倒になっちまって万事|放擲《ほうてき》して来ちまいました。」私「お宅では、皆さん待っていらっしゃるんでしょう。」氏「家なんて面倒くさいもんです。」私「でも、好い奥様や、お子様がいらっしゃるのに。」私は、われ乍ら、月並な事を云ったものだと思った。氏「あなたは結婚だとか、家庭を、どう思いますか。僕は少なくとも結婚なんて、悪遺伝の継続機関だと思って居る。仮りにですな。僕が祖父母或いは父母の悪遺伝を継続して居る者とする……云うまでもなくそれは僕の子に孫に、或いはその孫に……。」氏はここまで云って口をつぐんで仕舞った。私は氏の実母が発狂者であることを、ひそかに知って居たので、粛然として氏の言葉を聞いた。だが、それを口に出すのは気の毒なのでさあらぬ体に言った。「そんなに考え過ぎても奥様やお子さんがお可哀想《かわいそう》ね。」氏「そりゃ、そうです。だから僕は、こんな事考え乍ら出来るだけ妻に対しては好い夫、子にも好い父であろうとして居ます。でもそういう責任や羈絆《きはん》を感ずれば感ずる程また一方に家庭への反逆心も起ろうというもんです。はははは……人間なんて、殊に男なんて勝手なもんですな。」
氏の笑い声が、はたはたと、八月の海岸地の繁茂する野菜畑に響き渡った。氏が妙に空虚に張った声の内容には、何か韜晦《とうかい》する感情が、潜んでいるようにも感ぜられた。ことによったら氏は家庭へ帰る代りに誰かに昨夜ひそかに逢《あ》って来たのでは無いかしら……誰かに……或いは彼女……X夫人に……。
某日。――昨夜、おばさん三味線《しゃみせん》を持って東京へ帰り(私に唄《うた》をうたわせ発声運動の目的で来たが私が避暑地の人達に聞かれるのを嫌がるので、)主人今朝大阪より此処へ戻る。夜汽車の疲れを見せてH屋の表門を主人がはいるや、麻川氏はいそいそ出迎えて呉《く》れる。私達の部屋より表門に近い氏の部屋へ氏は主人をまず招じて座布団《ざぶとん》をすすめ、洗面器へ冷水を汲み、新らしいタオルを添えるなど、この気の利かない私よりもずっと行き届いた款待振《かんたいぶ》りである。そういう場合氏の亙《わた》りの長い手足は、中年の良妻のような自由性と洗錬を見せて働く。こういう折々、いつも私は思うのであるが、これは氏の天資か、幼時からの都会の良家的「お仕込み」で、習性となって居る氏の動作が、このほか松葉杖つく画家K氏を、まめまめしく面倒見る氏の様子を、何事の美挙ぞと、私は眺めたことも度々あった。主人も好もしそうに微笑して氏にもてなされて居る。両優ふくんだような初対面の挨拶に代って、今や私達は真に打ち融け合った一家族の如き団欒《だんらん》をなす。
某日。――大阪から主人が戻って五六日たった今日の午前十時頃、H屋の門前に一台の古馬車が止った。これは鎌倉でも海岸に遠い場所から海岸へ出る人の為めに備えられている雇い馬車であるらしい。私は確実には知らないが、何処かの貨馬車置場にでも納まっているものらしい。鎌倉の街を歩いて居て曾《かつ》てこんな馬車に逢わなかったのを見ると、余程特種な計画的な場合の人にのみこれは雇われるものらしい。それを麻川氏の部屋で頼んだものだ。私が、麻川氏の部屋と敢《あ》えて書くのは、この頃の麻川氏の部屋は、大川赫子によって殆
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