て見ればそれは一枚のオフセット版でチントレットの裸婦像だった。艶消《つやけ》しの珠玉のような、なまめかしい崇高美に、私は一眼で魅了されて仕舞った。従妹も伸び上って私の手許《てもと》の画面に見入った。そして、「まあ。」と嘆声をもらした。「ははあ、讃嘆《さんたん》して居られますな。」と麻川氏はめったに談しかけない従妹へ言葉をかけなかなか画面から眼を離さない私達を満足気に見守って居たが、私が画を氏に返すと、氏は待ち受けたように云い出した。「然《しか》しですな、僕等がこの大正時代に於て斯《こ》うまで讃嘆するこの裸婦の美をですな、我国古代の紳士淑女達――たとえば素盞嗚尊《すさのおのみこと》、藤原鎌足《ふじわらのかまたり》、平将門《たいらのまさかど》、清少納言、達が果して同等に驚嘆するかですな、或いはナポレオンが、ヘンリー八世が、コロンブスが、クレオパトラが、南洋の土人達がですな、果して、今の我々と同価に評価するかどうかですな……。」
 氏の言葉を茲《ここ》まで聞いて私は、氏がチントレットの画像を私の部屋に見せに来た意味がほぼ判った。氏は、先刻私と云い合った美人の評価の結論を氏の思わく通りに片付け度《た》くってチントレットの裸婦像をその材料に使う為め、私の部屋まで出かけて来て、殆《ほとん》どその効果を収め得たのだ。私は胸にぐっとつかえるものが出来て氏の言葉を聞き乍ら氏の手へ返ったオフセット版をじっと見詰めて居た眼を動かさなかった。氏の敏感はすぐその私に気がついたらしく流石《さすが》に黙って立ち上った氏の顔を私が視《み》たとき私はたしかに氏の顔に「自己満足の創痍《そうい》。」を見た。私はあの時の氏の「自己満足の創痍。」に氏の性格の悲劇性をまざまざ感じたのを今もはっきり覚えて居る。
 叔母さんのいわゆる「うしろ暗さ」をさしあたり麻川氏に探せば以上のような先日中からのいきさつのいろいろが想《おも》い出される。だが、氏が「自己満足の創痍。」のためにやや蹌踉《そうろう》として居る始末までをなお私が氏からこの上負わされるのはやり切れない。
 某日。――氏の部屋には大勢の氏の崇拝客が殆ど終日居並んでいた。氏は客達の環中に悠然と坐《すわ》って居ると殆ど大人君子のような立ち優《まさ》った風格に見える。あれを個人と対談してひどく神経的になる時の女々しく執拗《しつよう》な氏に較《くら》べると実に格段の相違がある。それにしても或る人が或る人を云うのに、「自分はあの人に何年つき合って居る。」などとその人を知悉《ちしつ》して居るように云うのを聞くが、私には首肯出来ない。一昼夜のうちに或る一定時間に主客として逢《あ》ったとて要するにそれはその人にとって置きの対人的時間を選んで逢ったものに過ぎない。どんなに砕けて応対してもそれはその人のとって置きの時間内での知己である。麻川氏のような見栄坊《みえぼう》な性格の人はなおさら、どんな親しい友人間としても全部の武装を解除しては逢って居まい。たとえ短時日でも隣人として朝夕の不用意のうちにその人の多方面を見ることは、主客、友人として特定時間内に何年逢って居るよりも何程か多くその人の表裏全幅を知悉し得ると云えよう。私はもはや二十日以上も、麻川氏と壁一重を隔てたばかりの生活を過した。私は、通常の客や友人同志の知らない「不用意の氏」を随分|観《み》た。或る朝、氏が帯の端を垂らしてだらしなく廊下を歩いて便所に行く後姿。誰も居ない洗面所の鏡の前へ停って舌を出したり額を撫《な》でたり、はては、にやにや笑い、べっかっこ[#「べっかっこ」に傍点]をした顔を写し、それを誰も知らないつもりで済まし返って部屋へ引っ込んで行った氏。またある日の午後、盥《たらい》の金魚をたった一人でそっと覗《のぞ》いて居た氏。ひっそりと独りの部屋で爪《つめ》を切って居た氏。黙って壁に向って膝《ひざ》を抱いて居た氏。夜陰窓下の庭で上半身の着衣を脱いでしきりに体操をして居た氏。ふと、創作の机から上げた氏の顔が平生の美貌《びぼう》と違った長いよれよれの顔で、気味悪いグロテスクな表情を呈して居た。これらは、他人に向って一種のポーズをつくり、文学だの美術だのを談って居る氏よりも、どれほど無邪気で懐しく、人間的な憂愁や寂寞《せきばく》のニュアンスを氏から分泌しているかも知れないのだ。私が氏の為めに、随分腹立たしい不愉快な思いをし乍ら、いつかまた好感を持ち返すのは、ふとした折に以上のような氏の人知れない表情に触れるともなく触れるからかも知れないのだ。
 某日。――蒸暑い風が、海の方から吹き続けてきて、部屋には居たたまれない夜だ。叔母さんは、お駒婆さんと親しくなって、町へ一緒に買物に行った。私は、たまった手紙を書き終え九時頃従妹と庭の涼み台に出た。其処にたった一人麻川氏が居た。星の多い夜
前へ 次へ
全15ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング