ても異議無しの筈《はず》ですがねあなたは。」私「ある女って誰ですか。」私も咄嗟《とっさ》の場合、詰《きっ》となった。麻川氏は必死な狡《ずる》さで「ふふふふ。」と笑った。ふと、私はX夫人の事を思いついた。そして、巧《たくみ》な化粧で変貌《へんぼう》したX夫人を先年某料亭で見て変貌以前を知って居る私が眼前のX夫人の美に見惚《みほ》れ乍ら麻川氏と一緒に単純に讃嘆《さんたん》出来なかった事、その気持ちでその時の麻川氏を批判した随筆を或る雑誌に絶対に氏やX夫人の名前を明記しないで書いたのが、矢張り麻川氏は読んで感付き気持ちに含んで居たのだと判った。「私は、自分の美人観はかなりはっきり持って居ますけれどひと様の好悪はどうでも好いんです。」私は斯《こ》う云って何故か悲しくなってうつ向いて仕舞った。何というしつこい氏の神経だ。正午前から、あんなに女中に言伝《ことづ》て、お駒婆さんに菓子を持たせ、部屋へ話しに来るように私を呼び立てたのは、この事を云う為だったのか、もうこのくらいつき合えば、この事を云い出しても好いと、見はからっての氏の招待だったか……その二三日前もこんな事があった。私が海岸から扇《おうぎ》ヶ谷《やつ》へ向う道で非常な馬上美人に遇《あ》ったと帰って来て氏に話した。すると氏は妙な冷笑を浮べて「非常な美人? ははあ、あなたに美人の定見がありますか。」私「でも、私は美人と思ったのですもの、定見とか何とか問題無しに。」麻川氏「その女が馬上に居たんで美人に見えたんでしょう。」私にもぐっと来る気持ちが起きたが表面は素直に「馬上だからなおスタイルが颯爽《さっそう》としてたんでもありましょうがね、私の云うのは顔なんですの、素晴しく均整のとれてる顔が、馬上でほっと赧《あか》らんでいましたの。」「ははあ。」と麻川氏はどうも遺憾で堪《たま》らない様子だ。「由来均整のとれてる顔には莫迦《ばか》が多いですな。」
私はむっとして傍を向いた。何故私が扇ヶ谷の道路で観《み》た馬上の女性を麻川氏の前で美人と云ったのは悪いのか。そのくせ、麻川氏自身は殆ど絶えず色々な女性の美醜を評価し続けて居ると云っても好いくらいだのに何故私がたまたま扇ヶ谷の馬上美人を氏の前で褒めては悪いのか。事実私としては白日の下で近来あれ程高貴で美麗な顔立ちを見たことが無いのだ。
麻川氏は私のむっとした顔色を観てとった。するとたちまち臆病《おくびょう》らしくおどおどして茶を汲《く》んで私の前に置いてとっつけたように云った。「多分素晴らしく美人だったのでしょうな。その美人は。」私はおとなしく笑っちまった。「ええ、有がとう。」私は何が為に有がとうと云ったのだろう。そのくせ胸は口惜しさで一ぱいなのに……。
私はそれから、精々麻川氏にもてなされて氏はやっぱり気の弱い好人物なのだ、と心の一部分では思い乍《なが》ら部屋へ帰った。だが、口惜しさは止らない。従妹達《いとこたち》には昼寝の振して背中を向け横になった。そしてひそかに出て来る涙を抑えた。私も頑愚で人に自分の思うことを曲げられないあつかい難い女かも知れない。しかし、麻川氏の神経はあんまりうるさい。これではまるで、鎌倉へ麻川氏の意地張りの対手に来て居るようなものじゃないか……。
従妹がうしろで云った。「お姉様。麻川さんと何か喧嘩《けんか》していらしったのでしょう。」あとは従妹の独語的に「ほんとにさ、多田さん(嘗《かつ》て私を変態的に小説に書いて死んで行った病詩人)麻川さんと云い、文士なんて、なんてうざうざと面倒くさい人達なんだろう。」この実際家で、しっかり者の従妹の云い草が、あんまりユーモリスチックなんで、私は、くるっと体を向き変え声を立てて笑って云った。「そして、このお姉様も、およそ面倒くさい、うざうざじゃないかねえ。」「ふふん、仕方が無い、さ。」従妹はぱたん、と棕梠《しゅろ》バタキで蠅《はえ》を叩《たた》いた。
一しきり昼寝して起きて従妹に羊羹《ようかん》を切らせ、おやつにして居ると、障子の外で、ことん、ことん、廊下を踏む足音がする。「どなた?」と従妹が立って行く先に障子を細目に開けたのは麻川氏だった。「やあ、お茶ですか、また来ましょう。」私は先刻の事などひと寝入りして忘れて仕舞ったあとなので「いいえおはいり下さい。藤村の羊羹が東京から届きましたの。」愛想よく麻川氏に座蒲団《ざぶとん》をすすめた。氏は片手に紙挟《かみばさ》みのようなものを持ってはいって来た。私達のすすめる羊羹を、「うまいですな。」と一切|喰《た》べた。そして何か落ちつかない様子で、まじまじ襖《ふすま》や床の間を見て居たが、やがて紙挟みを私の前へ出して、「これ御覧になりませんか。」私「何ですか。」麻川氏「ブックの間から偶然出て来たんですよ。」
私は何気なく氏の手から受け取っ
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