ませんよ。」おばさんはだから発声運動をさせようと、三味線《しゃみせん》を持って来て、明日から私に鶴亀の復習をさせようとして居ることを話して二人は応接室から出ようとすると麻川氏は改めて私を呼び留めた。そして大真面目《おおまじめ》に「あなたんとこへまだ随分沢山の人が東京から来るんでしょうな。およそ何人位まだ来る予定ですか。」私「それは判りません。」麻川氏「それらの人達がですな、一々僕を頭に置いて帰るんじゃあ、やり切れない……。」
 暗い廊下を通り乍《なが》ら叔母さんは云った。「変な人ね、あの麻川さんて人は。」私「……。」叔母さん「何だって人の処へ来るお客の数を調べ上げたり気にしたりするんだろうね。」
 部屋へ帰って来て床を敷き乍らも叔母さんは独言《ひとりごと》のように云っている。「どうも変だよ、あの人はまるで、うしろ暗い事でも持っているようだ。」などと。叔母さんは五十近くでなりふり[#「なりふり」に傍点]など古風で常識的だが、なまなかの若者より敏感なのだ。やがて叔母さんは襖《ふすま》をしめて従妹《いとこ》と向うの部屋で寝て仕舞った。私は昼寝をかなりしたし、叔母さんの言葉や、麻川氏の今さっきの言葉や態度も気になって寝られ無い。仕方なしに起きて机の上に両手を組み頭をのせ叔母さんの云った麻川さんのうしろ暗い事について考え込んだ。うしろ暗い事なんか誰でも持って居るのだ、それをあんなにも人に見せまい感づかれまいとする麻川氏の焦燥は、見て居てもこっちが辛《つら》い。お客はお互いの部屋のお互いっこなのだ。も一つの部屋のブルジョア息子達の部屋のお客こそ大したものだ。朝から晩まで誰かしら外部のものが詰めかけ、ハモニカ、合唱、角力《すもう》、哄笑《こうしょう》。それらは麻川氏の神経に触らなくて「種|蒔《ま》く氏」の外は殆《ほとん》ど皆おとなしく話し込んだり遊んだりして帰って行く私の客達に麻川氏は一種の恐怖観念のようなものを抱くのらしい。麻川氏の方にしても若い無邪気な×氏や温厚な洗錬された作家×××氏や画家K氏を除く外はあんまり愉快な客ばかりでは無い。或る一人の男などはたまたま廊下で私に逢《あ》い私を呼び留めて「僕あ身分をかくして居るんですが。」などと思わせぶりな前提で麻川氏を誇張的に讃美《さんび》し自分も麻川氏の客であるからには、天下の存在であるかのような口吻《こうふん》を洩《も》らして私に堪《たま》らなく気障《きざ》な思いをさせ、また相当|曰《いわ》くつきらしい女客達が麻川氏を囲んで大柄に坐《すわ》りこみ、麻川氏の座敷から廊下や庭を往き来する人達を睥睨《へいげい》するのも愉快では無い。私などそんな女達や陰口の上手な麻川氏等に何を云われて居るのかと時々たまらなく神経に触る。なるたけ麻川氏の部屋に客の居るとき、私は自分の存在を隠して遠慮して居る。客の居ないときの麻川氏と談す時は、麻川氏の客のことなど殆ど忘れて仕舞って居るのに、麻川氏は、氏と何の関係も無い私の客達に、ああも神経質になるのは、叔母さんのいわゆる「何かうしろ暗さ。」を私に感じて居、それを私が客達に或いは幾分でも談すと思っているのかしら。それにしても麻川氏が私に「うしろ暗さ。」を懸念するような事は差し当り何だろう。強て想《おも》い出そうとすれば一週間ばかり前の「美人問答。」の折の氏の執拗《しつよう》さだ。氏が自分から私に押したあの時の執拗さに反発され、それが氏に創痍《きず》を残していることが想像される。
 一週間ばかり前のひるすぎ、麻川氏と私の話は「女性美。」というような方へ触れて行った。麻川氏「女の本当の美人なんてものは、男と同じように仲々|尠《すくな》いですね。しかし、男が、ふと或る女を想いつめ、その女にいろいろな空想や希望を積み重ねて行くとその女が絶世の美人に見えるようになって来ますね。そして、その陶酔を醒《さま》したくないと思いますね。その方が男にとって幸福ですからね。女から紅や、白粉《おしろい》を拭《ぬぐ》い取って、素顔を見るなんか私にはとても出来ない事です。だが、それだって好いじゃないですか。それだって。」氏の言葉の調子は、いくらかずつ私をきめつけてかかる。私は「そうですとも。」と相槌《あいづち》を打った。すると麻川氏は「ほんとうにそう、思うんですか。」とますます私を極《き》め付ける。私「ええ。」麻川氏「本当に……じゃあ何故あなたは……何故……。」「何ですか」と私。
 麻川氏は、それきり口をつぐんで仕舞った。眼が薄ぐもりの河の底のように光り、口辺に皮肉な微笑が浮んだ。やがて氏は眼を斜視にして藤棚の一方を見詰めて居たが突然立ち上り手を延ばして藤の葉を二三枚むしり取り、元の処へ坐った。が、いらいらとしていくらか気息を呑《の》み、「僕が、そういう意味でですね、僕がある女を美人と認めるとし
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