て居て岸から離れようとはしない。誘い疲れて断念した赫子と麻川氏は誘うのを止めて、ほんの一廻《ひとまわ》りその辺を泳いだだけで直《す》ぐ岸へ帰って来た。「どうしても泳ぎませんかね、坂本さん。」と二人はまだ執拗《しつよう》に主人に云うので「ああ、今日は嫌だ。」と主人も少しむっとしたように云った。麻川氏はさも失望したように、「駄目だなあ、折角誘って来たのに。」赫子はもうすっかり不機嫌を顔に出して「ふん。」と横向いたなり、さっさと更衣場の方へ足を向けた。「君達、僕に構わずにゆっくり泳いだら好いじゃ無いか。」主人が云うと麻川氏は「つまんないからもう帰りましょう。」と矢張り麻川氏もさっさと更衣場の方へ行って仕舞った。従妹《いとこ》一人は無頓着に独りで、あちこち波を掻《か》き廻して居たが、あんまり早い一行の帰り支度に吃驚《びっく》りして波から上ってきた。馬車が待たせてあった。長谷からH屋まで電車もある。平生は誰でも電車へ乗る。それを帰りの馬車まで待たせてある。私は、いよいよ何事かの計劃《けいかく》のもとに今日の「海水浴場行」が企てられたものと直覚した。丁度、主人は更衣場の傍でA社のK部長に逢《あ》い、K氏の別荘へ来て居るT氏に逢う為め同行したので私は従妹と一緒にすすま無い馬車の同乗をして赫子や麻川氏と帰途に就いた。果して一丁程馬車が動くと赫子が口を歪《ゆが》め、私には顔の側方を向け、而も一番私に云う強い語気で「ふん、あれでも神伝流の免許皆伝か。」麻川氏「くどく云うなよ。」赫子「だってとうとう瞞《だま》されちゃった。」私は判った。昨日の午後、水泳の話が麻川氏の部屋で出たその時、私と赫子との説が何かで一寸行き違った。思い上っていつも座中の最得位を占めて居なければならない赫子が面白く無さそうな顔付きだった。そのあとの話の都合で私は主人が少年時代隅田川の河童党《かっぱとう》で神伝流の免許を受けて居ることを云った。だが、それをまた何のために馬車まで雇って実験する必要があるのだろう。たとえば今日泳がなくても主人の免許を受けたことは飽迄《あくまで》も事実であるのに、浅はかな人達よ。何とでも思うが好い。と私はぐっと、息を詰めて堪えて居た。赫子は、云うだけは云ったが、折角の計劃が無になったいまいましさを紛らす為めか傍若無人にたてつづけの鼻唄《はなうた》。麻川氏は私と同じ無言で、しかし、何かしきりに
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