ざいますよ。やつぱり本親のない子ですね」とまき[#「まき」に傍点]は言つた。
私は、やつぱり孤独は孤独を牽《ひ》くのか。そして一度、老婢とその少女とが店で対談する様子が見度《みた》くなつた。
その目的の為めでもなかつたが、私は偶然少女の茶店の隣の表具店に写経の巻軸《かんじく》の表装を誂《あつら》へに行つて店先に腰かけてゐた。私が家を出るより先に花屋へ使ひに出したまき[#「まき」に傍点]が町向うから廻つて来て、少女の店に入つた。大きな「大経師」と書いた看板が距《へだ》てになつてゐるので、まき[#「まき」に傍点]には私のゐるのが見えなかつた。表具店の主人は表装の裂地《きれじ》の見本を奥へ探しに行つて手間取つてゐた。都合よく、隣の茶店での話声が私によく聞えて来る。
「何故《なぜ》、今日はあたしにお茶を汲《く》んで出さないんだよ」
まき[#「まき」に傍点]の声は相変らず突つかゝるやうである。
「うちの店ぢや、二十|銭《せん》以上のお買物のお客でなくちや、お茶を出さないのよ」
ひろ子の声も相変らず、ませてゐる。
「いつもあんなに沢山《たくさん》の買物をしてやるぢやないか。常顧客《おとくい》さまだよ。一度ぐらゐ少ない買物だつて、お茶を出すもんですよ」
「わからないのね、をばさんは。いつもは二十銭以上のお買物だから出すけど、今日は茶滓漉《ちゃかすこ》しの土瓶《どびん》の口金一つ七銭のお買物だからお茶は出せないぢやないの」
「お茶は四五日前に買ひに来たのを知つてるだろ。まだ、うちに沢山《たくさん》あるから買はないんだよ。今度、無くなつたらまた沢山買ひに来ます。お茶を出しなさい」
「そんなこと、をばさんいくら云つても、うちのお店の規則ですから、七銭のお買物のお客さまにはお茶出せないわ」
「なんて因業《いんごう》な娘つ子だらう」
老婢《ろうひ》は苦笑し乍《なが》ら立ち上りかけた。こゝでちよつと私の心をひく場面があつた。
老婢の店を出て行くのに、ひろ子は声をかけた。
「をばさん、浴衣《ゆかた》の背筋の縫目が横に曲つてゐてよ。直したげるわ」
老婢は一度「まあいゝよ」と無愛想に言つたが、やつぱり少し後へ戻つたらしい。それを直してやりながら少女は老婢に何か囁《ささや》いたやうだが私には聞えなかつた。それから老婢の感慨深さうな顔をして私の前を通つて行くのが見える。私がゐるのに気がつかなかつたほど老婢は何か思ひ入つてゐた。
ひろ子が何を囁いて何をまき[#「まき」に傍点]が思ひ入つたのか家へ帰つてから私が訊《き》くと、まき[#「まき」に傍点]は言つた。「をばさん御免なさいね。けふ家の人たち奥で見てゐるもんだから、お店の規則破れないのよ。破るととてもうるさいのよ。判つて」ひろ子はまき[#「まき」に傍点]の浴衣の背筋を直す振りして小声で言つたのださうである。まき[#「まき」に傍点]はそれを私に告げてから言ひ足した。
「なあにね、あの悪戯《いたずら》つ子がお茶汲んで出す恰好《かっこう》が早熟《ませ》てゝ面白いんで、お茶出せ、出せと、いつも私は言ふんで御座《ござ》いますがね、今日のやうに伯母《おば》夫婦に気兼《きが》ねするんぢや、まつたく、あれぢや、外へ出て悪戯でもしなきや、ひろ子も身がたまりませんです」
少し大きくなつたひろ子から、家を出て女給にでもと相談をかけられたのを留めたのも老婢《ろうひ》のまき[#「まき」に傍点]であつたし、それかと言つて、家にゐて伯母夫婦の養女になり、みす/\一生を夫婦の自由になつて仕舞《しま》ふのを止《や》めさしたのもまき[#「まき」に傍点]であつた。私の家の蔦の門が何遍か四季交換の姿を見せつゝある間に、二人はそれほど深く立入つて身の上を頼り合ふ二人になつてゐた。孤独は孤独と牽《ひ》き合ふと同時に、孤独と孤独は、最早《もは》や孤独と孤独とでなくなつて来た。まき[#「まき」に傍点]には落着いた母性的の分別が備はつて、姿形さへ優しく整ふし、ひろ子にはまた、しほらしく健気《けなげ》な娘の性根が現はれて来た。私の家は勝手口へ廻るのも、この蔦の門の潜戸《くぐりど》から入つて構内を建物の外側に沿つて行くことになつてゐたので、私は、何遍か、少し年の距《へだた》つた母子のやうに老女と娘とが睦《むつ》び合ひつゝ蔦の門から送り出し、迎へられする姿を見て、かすかな涙を催したことさへある。
老婢は子供の時分に聞いた、上野の戦ひの時の、傷病兵の看護人が男性であつたものを、女性にかへてから非常に成績が挙るやうになつた看護婦の起源の話(これは近頃、当時の生存者がラヂオで放送した話にもあつたが)を想ひ出した。また自分の体験から、貧しい女は是非《ぜひ》腕に一人前の専門的職業の技倆《ぎりょう》を持つてゐなければ結婚するにしろ、独身にしろ、不幸であるこ
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