》るかと思えば一方楊朱の一派は個人主義的享楽主義を高唱した。変ったものには「白馬、馬に非《あら》ず」の詞で知られて居る公孫龍一派の詭弁《きべん》派の擡頭《たいとう》があった。また別に老子の系統をひく列子があった。年代は多少前後するが大体この期間を中心におよそ人間が思いつくありとあらゆる人生に対する考えが衣を調《ととの》え装いを凝《こ》らして世人に見《まみ》えたのみでなく、義を練り言葉を精《くわ》しくして互いに争った。時代は七国割拠の乱世である。剣戟は巷《ちまた》に舞っているこの伴奏を受けての思想の力争――七花八裂とも紛飛|繚乱《りょうらん》とも形容しようもない入りみだれた有様だった。
 荘子は若くして孔老二子の学に遊び、その才気をもってその知るところを駆使し学界人なき有様だった。だが、彼は壮年近くなると漸く論争に倦み内省的になり、老子の自然に順《したが》って消極に拠る説に多く傾いて来た。しかし、六尺豊な体躯を持っている赫顔白髪の老翁の太古の風貌を帯《お》べる考えと多情多感な詩人肌の彼の考えと到底一致する筈がない。結局荘子は先哲のどの道にも就《つ》かず、己れの道を模索し始めた。
 荘子は
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