らな灯の点在だけになり、大梁と思われる地平線の一抹の黒みの中には砂金のような灯が混っている。
荘子は心に二つの石を投げられて家に帰って来た。蘇秦も張儀も共に修学時代彼と一緒に洛邑に放浪していた仲間であった。二人の仲のよいことは仲間でも評判だった。それがいま、いかに戦国の慣《なら》いとは云え敵と味方に分れて謀《はかりごと》の裏をかき合って居るのだとは……蘇秦の豪傑肌な赫《あか》ら顔と張儀の神経質な青白い顔とが並び合って落日を浴び乍《なが》ら洛邑の厚い城壁に影をうつして遊山《ゆさん》から帰って来た昔の姿がいまでも荘子の眼に残って居る。今、廟堂で天下を争って居る二人は全く違った二人に思えた。このことはすでに荘子を虫食《むしば》んで来た現実回避の傾向に一層深く思い沁みた。いやな世の中だ。ただただいやな世の中だ、と思えた。
しかし麗姫の事に係《かかわ》って来ると、荘子のこころは自然と緊張して来る。彼は隠遁生活の前、洛邑に棲んで居た頃度々(時には妻の田氏とも一緒に)宴席やその他の場所で彼女に会ったことがある。生一本で我儘でいつも明鏡を張りつめたような気持ちで力一ぱい精一ぱいに生活して行って塵の毛程の迷いも無い。人間がその様に生きられるならば哲学とか思想とかいうものも敢《あえ》て必要としないだろう。時々思い出して切なくなる荘子にそう思わせる麗姫はもと秦の辺防を司《つかさど》る将軍の一人娘であった。戦国の世によくある慣いで父将軍はちょっとした落度をたてに政敵から讒言《ざんげん》を構えられ秦王の誅《ちゅう》を受けた。母と残された麗姫はこのときまだこどもであった。天の成せる麗質は蕾《つぼみ》のままで外へ匂い透り行末《ゆくすえ》希代の名花に咲き誇るだろうと人々に予感を与えている噂を秦王に聞かせるものがあった。で、間もなく母にも死に訣れた麗姫は引取られ后宮《こうきゅう》に入れて育てられた。いずれ王の第二の夫人にも取立てられる有力な寵姫になるだろうと思われているうち、この王が歿し麗姫は重臣達の謀《はか》らいで遠くの洛邑の都に遊び女として遣られた。当時洛邑の遊び女には妲妃《だっき》、褒※[#「女+以」、第3水準1−15−79]《ほうじ》、西王母、というようなむかし有名な嬌婦や伝説中の仙女の名前を名乗っている評判のものもあった。客には士太夫始め百乗千乗の王侯さえ迎え堂々たる邸館に住み数十人の奴婢を貯え女貴族のようなくらしをしていた。この中に入った麗姫が努めずしてたちまちその三人を抜いて仕舞ったというのには、何か彼女に他と異なった技巧でも備って居たのかと云うに、却ってそれは反対であるとも云える。彼女は我儘で勝手放題気にいらなければ貴顕の前で足を揚げ、低卓の鉢の白|牡丹《ぼたん》をその三日月のような金靴の爪先きで蹴り上げもした。興が起れば客の所望を俟《ま》たないで自ら囃《はやし》を呼んで立って舞った。悲しみが来れば彼女は王侯の前でも声を挙げてわあ、わあ泣いた。涙で描いた眼くまの紅が頬にしたたれ落ち顎に流れてもかまわなかった。それから彼女は突然誰の前でも動かなくなり暫く恍惚《こうこつ》状態に陥ることがある。何処《どこ》を見るともない眼を前方に向け少しくねらす体に腕をしなやかに添えてそのままの形を暫く保つ――そなたは何を見て何を考えるのかと問う者があれば、わたくしは母のことを始め一寸《ちょっと》想い出します。父が讒《ざん》せられた後の母は計られない世が身にしみて空を行く渡り鳥の行末さえ案じ乍ら見送りました。でも、その苦労性な母を思ってわたくしは、そんな苦労は、いや、いや、わたくしはわたくしの有りのまま、性のままこの世のなかを送りましょう、と直ぐ思い直すとそれはそれはよい気もちになり恍惚として仕舞います――、と彼女はあでやかに笑うのであった。その申訳《もうしわけ》は嘘かまことかともかく麗姫のその状態を人々は「麗姫の神遊」と呼んで居る。そのとき薄皮の青白い皮膚にうす桃色の肉が水銀のようにとろりと重たく詰った麗姫のうつくしさはとりわけたっぷりとかさ[#「かさ」に傍点]を増すのであった。麗姫はまた、随分客に無理な難題を持ちかけた。荘子のパトロン支離遜は決して彼女に色恋の望みをかけてのパトロンではなかったが、それだけにまた彼女は余計甘え宜かった。ある時は西の都の有名な人形師に、自分そっくりな生人形を造らせて呉れとせがんだ。それからまた東海に棲む文※[#「魚+搖のつくり」、第4水準2−93−69]魚《ぶんようぎょ》を生きたままで持参して見せて呉れとねだった。その魚は常に西海に棲んで居て夜な夜な東海に通って来る魚だなぞと云われて居た珍らしい魚であった。この魚に就いて書かれてある山海経《せんがいきょう》中の一章を抽《ひ》いてみる=状如鯉魚、魚身而鳥翼、蒼文而首赤喙、常行西海
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