、遊於東海、以海飛、其音如鶏鸞。
だが東海の海近い姑蘇《こそ》から出発して揚子江を渡り、淮河《わいが》の胴に取りついてその岸を遡《さかのぼ》り、周の洛邑へ運ぶ数十日間その珍魚を生のままで保つことは、殆ど至難な事だった。支離遜はしかし或る神技を有する老人に謀って麗姫のその望みをかなえてやった。ただし老人はそれを運ぶ水槽のなかの仕掛けは誰にも見せなかったという話だ。
荘子はこんな事をうつらうつら考え乍ら小さい燭の下で妻の田氏と沈黙勝ちな夜食を喰べて居た。考えれば考える程不思議な麗姫の存在だった。彼女は彼女が我儘をすればする程彼女の美しさを発揮するのだ………道は道なき処に却って有るのではないか、彼女の如く拘束なき処に真の生命の恍惚感が有るのではなかろうか……。
「あなた、遜さんが何かまた麗姫の珍らしい話でもして参りましたか」
妻の言葉に荘子ははっとしたが、まさか一婦人の存在を自分の「道」に係わる迄考慮して居たとも云い度くなかった。
「別に珍らしい話というでもないが相変らずやんちゃで美しいと云ってた」
と答え、それに申わけばかり云い足して、麗姫が池の魚の逃げたのを恨んだ話をつけ加えて何気ない様子で軽く笑ったが悧巧な田氏は大方夫の胸中は察して居た、しかも、何事も夫の気持ちのリズムに合わせようとして矢張り夫と同じその話を軽い笑いで受けた。
「ほ、ほ、ほ、相変らず可愛ゆい娘でございますね」
だが荘子はまたそれに重ねて笑う気持にもなれず、相変らず不味《まず》そうにもそりもそり夜食の箸《はし》を動かして居る。
妻の田氏は魏の豪族田氏の一族中から荘子の新進学徒時代にその才気|煥発《かんぱつ》なところに打ち込んで嫁入って来たものであった。それが荘子が途中「道」に迷いを生じ始め漆園《しつえん》の官吏も辞め華々しかった学界の生活からも退いて貧しい栄えない生活にはいってからも、昔の豪奢《ごうしゃ》な育ちを忘れ果てた様に、何一つの不平もいうところなく彼に従って暮して居る。きりょうも痩《や》せては居るが美しかった。荘子もこの妻を愛して居る。だが、荘子はこの妻の貞淑にもまた月並な飽足《あきた》りなさを感じるのだった。つまり貞淑らしい貞淑は在来の「道らしい道」に飽きた荘子にとって無上の珍重すべきものではなかった。悧巧な田氏は夫の自分に対するその心理さえ薄々知って居てあえて不平も見せなかった。
小童を手伝わして食卓を撤したあと、袖をかき合せて夜風の竹の騒ぐ音を身にしませ乍ら、田氏はなるたけ夫の感情を刺戟しないようさりげなく云った。
「ねえ、あなた。あなたもたまには洛邑にでも出てお気晴らしをなさっていらっしゃいませ、こんな田舎で長いこと毎日独で考え込んでばかり居らっしゃるのはお体の為によくありませんでしょう」
田氏はまた燭の火に一層近づいて髪の銀|簪《かんざし》がすこし揺れるくらいの調子でつけ加えた。
「ねえ、洛邑に沙汰《さた》して置いて遜さんが次の商用で旅に出ないうちに一度是非行っていらっしゃいませ。そして久しぶりであの無邪気な麗姫にも逢ってごらんなさいませ。案外、お気持も晴れて、御勉強の道も開けて参るかも知れません」
荘子はじっと瞳を凝らして妻の顔を見た。妻が、決して、りんきやあてこすりで麗姫に逢えと云うので無いことは判り過ぎるほど判って居た。それでも荘子は深く妻のその言葉に感謝するという単純な気持ち以外にあまりにこの女の貞淑の誂《あつら》え通りに出来上って居る、というような不思議な気持ちで妻の顔をじっと見て居た。
夜の寝箱にとじ込められる数羽の家鴨《あひる》のしきりに羽ばたく音がしんとした後庭から聞えて来る。
その後一ヶ月ばかりして荘子は妻の熱心なすすめ通り兼ねて沙汰して置いた支離遜からの迎えもあっていよいよ洛邑へ向けて旅立った。
秋も末近いのでさすがに派手な洛邑の都にも一かわさび[#「さび」に傍点]がかかっていた。さしも天下に覇を称えられていた周室はすっかり衰えて形式だけの存在になったが、その都である洛邑はやっぱり長い間の繁昌の惰性もあり地理的に西寄りではあるが当時の支那の中心に位し諸国交通の衝路に当りつつ歌舞騒宴の間に説客策士の往来が行われ諸侯の謀臣と秘議密謀するの便利な場所であった。
荘子が遜に連れられ洛邑の麗姫の館に来たのは夕暮を過ぎて居た。二人は中庭を取囲むたくさんの部屋の一つに通された。星の明るい夜で満天に小さい光芒が手を連ねていた。庭の木立は巧《たくみ》に配置されていて庭を通して互いの部屋は見透さぬようになっていた。窓々には灯がともり柳の糸が蕭条《しょうじょう》と冷雨のように垂れ注いでいた。
二人が侍女を対手《あいて》に酒を呑み出して居るところへ「蠅翼《ようよく》の芸人」が入って来た。半身から上が裸体で筋肉を自慢に見
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