せて居る壮漢が薄手の斧《おの》を提げて来た。あとから美しく着飾った少女が鼻の尖にちょんぼり白土を塗って入って来た。その白土の薄さは支那流の形容でいえば蠅の翼ほどだった。少女は客の前へ来てその白土に触れさせないようにその薄さだけを見せて置いて床へ仰向けに大の字なりに寝た。壮漢は客に一礼して少女の側に突立った。斧が二三度大きく環を描いて宙に鳴った。はっという掛声と共に少女の鼻端の白土は飛び壁に当ってかちりと床に落ちた。少女はすぐさま起き上って嬌然と笑った。こんもり白い鼻は斧の危険などは知らなかったように穏かだった。壮漢はその鼻の上を掌で撫でる形をして「大事な鼻。大事な鼻」と云った。遜も侍女たちも声を挙げて笑った。戦国の世には宴席にもこういう殺気を帯びた芸が座興を添えた。
 目ばたきもせず芸人の動作に見入っていた荘子はつくづく感嘆して訊いた。
「これには何か、こつがあるのかね」
 壮漢は躊躇《ちゅうちょ》なく答えた。
「こつは却って、この相手の娘にあるんです。この娘は生れついてから刃ものの怖ろしいことを知らないんです。斧に向っても平気でいます。それでわたくしはやすやす斧を揮《ふる》えるのです」
 荘子は「無心の効能」に思い入りながら少女を顧みた。少女は侍女の一人から半塊の柘榴《ざくろ》を貰って種子を盆の上に吐いていた。それを喰べ終ると壮漢に伴われ次の部屋へ廻りに出て行った。
 薫る香台を先に立てて麗姫が入って来た。部屋の中は急に明るくなった。彼女はその美を誰にも見易くするように燭の近くに座を占めた。
 彼女は生れつきの娥※[#「女+苗」、283−11]《がぼう》靡曼《びまん》に加えて当時ひそかに交通のあった地中海沿岸の発達した粉黛《ふんたい》を用いていたので、なやましき羅馬《ローマ》風の情熱さえ眉にあふれた。
 彼女の驕慢も早く洛邑に響いた稀世の学者荘子には一目置いて居た。彼女はおとなしく荘子の前に膝まずいた。
「よくお越し下されました。随分お久しぶりにお目にかかります」
「田舎へ入って仕舞ってどちらへも御無沙汰ばかりです。だが、あなたは相変らずで結構ですな」
「はい、有難う御座います。お蔭さまをもちまして………あのお宅さまでは奥様も御機嫌およろしゅう御座いますか」
「先ごろから少々わずらって居ますがさしたることもありません。大方なれない田舎棲いでいくらかこころが鬱したからででもありましょう」
「ちと都の方へもお出向き遊ばすよう御言伝えて下さりませ」
「懇《ねんごろ》なお心づかい有難う、とくと申伝えてつかわしましょう」
 しかし、荘子と麗姫の儀礼をつくした言葉のやりとりはその辺で終った。やがて麗姫は何もかも忘れてしまって自分の興そのものだけを空裏に飛躍させ始めた。荘子はその境地を見るのを楽しみにしてこそ麗姫に逢いに来たのである。彼は心陶然として麗姫の興裡に自分も共に入ろうとした。
「………海上に浪がたつ時、その魚は翼をのばして、一丁も二丁も浪の上を飛ぶのですって」
 彼女は、それを繰返し繰返し云うのであった。荘子は始め、彼女が何を云い出したのかと思ったらそれは先頃支離遜に無理難題を云いかけてはるばる東海から彼女が取寄せて貰った生きた文※[#「魚+搖のつくり」、第4水準2−93−69]魚の話であった。彼女はそれを折角《せっかく》生きたままで手許《てもと》へ運んで貰っても、彼女が洛邑の桶師につくらせた方一丈の魚桶では一向その魚がその本性の飛躍をしないでしおしおと水につばさをしぼめて居るのが残念だというのである。さてこそ彼女は身ぶり手まねでその魚が東海の浪の上を飛ぶであろう形まで真似てひとつには彼女の心やりとし、人に訴えてかなわぬ願いの鬱憤を晴すのだった。
「海上に浪が立つ時、その魚は翼をのばして浪の上を一丁も二丁も飛ぶのですって」
 彼女は幾度か目にそれを云ったあと、ころころと声を高欄の黄金細工にまで響かせて笑った。だがその笑いのあとの眼を荘子にとどめると彼女は真面目に支離遜に向いて云った。
「荘先生はお変りになりました。もと洛邑にお居での時は私のたわ言など、こんなに真面目に聞き入っては下さいませんでした。何か鋭いまぜ返しを仰《おっしゃ》るか、ほかのお方とお話をなさるかでした」
「まあ、そうむきにならなくとも宜い。先生は田舎へ退隠なされてからずっと渋くおなりなされたのです」
「そう仰ればもとはあんなにお美しかったお顔も鉛色におくすみなされて………して、その先生が何故わたくしなどをお招びになり馬鹿らしい所作にさもさも感に堪えたような御様子をなさいますのやら」
 支離遜は手持ち無沙汰に苦笑して居る荘子の方を見やり乍ら何と返事をしたものかと迷って居たが、麗姫がむやみに返事をせき立ててやまないのでとうとう云って仕舞った。
「先生はな………実はな
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