》るかと思えば一方楊朱の一派は個人主義的享楽主義を高唱した。変ったものには「白馬、馬に非《あら》ず」の詞で知られて居る公孫龍一派の詭弁《きべん》派の擡頭《たいとう》があった。また別に老子の系統をひく列子があった。年代は多少前後するが大体この期間を中心におよそ人間が思いつくありとあらゆる人生に対する考えが衣を調《ととの》え装いを凝《こ》らして世人に見《まみ》えたのみでなく、義を練り言葉を精《くわ》しくして互いに争った。時代は七国割拠の乱世である。剣戟は巷《ちまた》に舞っているこの伴奏を受けての思想の力争――七花八裂とも紛飛|繚乱《りょうらん》とも形容しようもない入りみだれた有様だった。
荘子は若くして孔老二子の学に遊び、その才気をもってその知るところを駆使し学界人なき有様だった。だが、彼は壮年近くなると漸く論争に倦み内省的になり、老子の自然に順《したが》って消極に拠る説に多く傾いて来た。しかし、六尺豊な体躯を持っている赫顔白髪の老翁の太古の風貌を帯《お》べる考えと多情多感な詩人肌の彼の考えと到底一致する筈がない。結局荘子は先哲のどの道にも就《つ》かず、己れの道を模索し始めた。
荘子はこころの中一応これを繰返して考えて見たが、いかに自分に敬愛を捧げて居ればとて、眼の前の商人支離遜にそうこまかく話す張り合いもなかった。そこで
「道は却って道無きを道とす、かも知れないよ。つまり、仕官も学問も自分の本当の宝になるものじゃ無くて、詰《つま》らないからなあ」
そして荘子は今度は隠退後|疎《うと》くなって居た世間の模様を支離遜から訊く方の番に廻った。
支離遜の語るのを聴けば聴くほど世の中は変りつつあった。強|秦《しん》に対抗すべく聯盟した趙、燕、韓、魏、斉、楚、の合従《がっしょう》は破れはじめ、これに代って各国別々に秦に従属しようとする連衡《れんこう》の気運が盛《さかん》になって来た。従って人も変りつつあった。六国の相印を一人の身に帯び車駕の数は王者を凌《しの》ぐと称せられて居た合従の策士蘇秦は日に日に落魄の運命に陥り新《あらた》に秦の宰相であり連衡の謀主である張儀の勢力が目ざましく根を張って来た。洛邑の子供達までが、迎うべき時代の英雄として口々に張儀の名を呼んだ。
佝僂の遜は屈《かが》んだ身体せい一ぱい動かして天下の形勢を説明した。年中諸国を縫《ぬ》って往来して居る彼は確《たしか》に世の中の実情を握んで居た。彼はその説明を終えるときこういう言葉をつけ足した。
「何もかも猫の眼のように変って行きます。しかし、そのうちにたった一つ変らないものがありますな。それは洛邑の名嬪《めいひん》麗姫の美しさですかな」
遜はあはははと笑った。その笑いには野暮な学者に向って縁の遠い女の話をすることの奇抜さを面白がる響があった。
ところが荘子は意外にも熱心な色を顔に現わして来た。
「麗姫は近頃どうして居るかね」
これには遜もあっ気にとられた。あなたのような堅人がどうして麗姫のことを御気に掛けられますかと問わざるを得なかった。荘子はあっさり、それは世間で評判の女だし洛邑では妻まで親しくして居たのだからと答えたが怪しく滑った調子だった。しかし荘子を信じて居る遜はなるほどとうなずいてから学者にも興味のありそうな麗姫の最近の逸話を彼に語った。
ある夏の日の夕であった。麗姫は自分の館の後園の池のほとりを散歩して居た。池には新しく鯉《こい》が入れてあった。麗姫は魚を見ようと池のへりに近寄った。鯉たちは人の影を見て急いで彼方の水底へ逃げた。水が彼女の裳《も》に跳ねた。しばらく顔を真赫《まっか》にして居た麗姫がやがて
「なんという失礼な魚達だろう。わたしは今まで誰にもこんな素気ないそぶりをされたことがない。いくら無智な魚でもあんまりひどい」
と子供のようにやんちゃに怒り出したという噂を話し終って遜は前にも増して転げるように笑った。
「どうです。魚にまで恨みごとを云う女です」
といってまた笑った。荘子もつき合いに笑って見せたが彼の憂鬱な顔には一種の興奮を抑えた跡が見えた。
支離遜は襟《えり》をかき合せて立上った。
「お訣《わか》れいたします。今度は忙しくてお宅でゆるゆるさせても頂けません。この次にはぜひお訪ねいたします。それまでに一つあなたもあっと云わせるような学説を立てて世間を驚かせて欲しいですな」
支離遜の乗った旅車の轍のひびきが土坡の彼方に遠く消えて行った。
日はいつの間にか暮れた。櫟社の大木は眠って行く空に怪奇な姿を黒々と刻《きざ》み出した。この木を塒《ねぐら》にしている鳥が何百羽とも知れずその周囲に騒いで居た。鳴声が遠い汐鳴りのように聴えた。田野には低く夕靄《ゆうもや》が匍って離れ離れの森を浮島のように漂わした。近くの村の籬落《まがき》はまば
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