荘子
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)袍《ほう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)郊外|櫟社《れきしゃ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「女+以」、第3水準1−15−79]
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紀元前三世紀のころ、支那では史家が戦国時代と名づけて居る時代のある年の秋、魏の都の郊外|櫟社《れきしゃ》の附近に一人の壮年=荘子が、木の葉を敷いて休んでいた。
彼はがっちりした体に大ぶ古くなった袍《ほう》を着て、樺の皮の冠を無雑作《むぞうさ》に冠《かぶ》って居た。
顔は鉛色を帯びて艶《つや》が無く、切れの鋭い眼には思索に疲れたものに有勝《ありが》ちなうるんだ瞳をして居た。だが、顔色に不似合な赤い唇と、ちぢれて濃い髪の毛とは彼が感情家らしいことを現わして居る。そうかと思えば強い高い鼻や岩のような額は意志的のもののようにも見える。全体からいっていろいろなものが錯綜し相剋し合っている顔だ。
荘子の腰を下している黍畑《きびばたけ》の縁の土坡《どて》の前は魏の都の大梁《たいりょう》から、韓の都の新鄭を通り周の洛邑《らくゆう》に通ずる街道筋に当っていた。日ざしも西に傾きかけたので、車馬、行人の足並みも忙しくなって来たが、土坡の縁や街道を越した向側の社《やしろ》のまわりにはまだ旅人の休んで居るものもあり、それに土地の里民も交ってがやがや話声が聞えていた。里民たちは旅人たちから諸国のニュースを聴かせて貰うのを楽しみによくここに集って来た。彼等は世相に対する不安と興味とに思わず興奮の叫び声を挙げた。荘子はそういう雑沓《ざっとう》には頓着《とんちゃく》なく櫟社の傍からぬっと空に生えている櫟《くぬぎ》の大木を眺め入って居た。その櫟は普通に老樹と云われるものよりも抽《ぬき》んでて偉《おお》きく高く荒箒《あらぼうき》のような頭をぱさぱさと蒼空に突き上げて居た。別に鬱然とか雄偉とかいう感じも無くただ茫然と棒立ちに立ち天地の間に幅をしている。こんな自然の姿があろうか。しかし荘子はこの樹の材質が使う段になると船材にもならず棺材にもならず人間からの持てあましものの樹であり、それ故にまた人間の斧鉞《ふえつ》の疫から免れて自分の性を保ち天命を全《まっと》うしているのだという見方をして、この樹を讃嘆するのだった。彼はつぶやいた。
「この樹は人間にしたら達人の姿だ」
そしてこの樹に対して現わした感慨の根となるものが彼の頭の中に思考としてまとまりかけて居た。=「道」というものは決して人の目に美々しく輝かしく見えるものでもなく、はっきりと線を引いてこれと指さし得るものでも無い。自然の化育に従って、その性に従うものは従い、また瓦石《がせき》ともなり蚊虻《ぶんぼう》ともなって変化に委《まか》せて行くべきものはまたその変化に安《やすん》じて委せる。これが本当の「道」であるべきだ。他の用いを望んで齷齪《あくせく》、白馬青雲を期することは本当の「道」を尋ねるものの道途を却《かえ》って妨げる=だが、この考はまだ何となく彼の頭のなかに据《すわ》りが悪いところもあった。人々は寸のものを尺に見せても世の中に出たがって居る。彼もつい先頃までその競裡に在ったのだ。この習性はそう急に抜け切れるものでは無い。彼はまたしても櫟の大木を見上げて溜息をついた。
この時、大梁の方角から旅車の一つが轍《わだち》を鳴らして来たが荘子の前へ来ると急に止まって御者《ぎょしゃ》台の傍から一人の佝僂《せむし》が飛降りた。近付いて来ると
「荘先生ではありませんか、矢張り荘先生だった」
と云った。これは荘子のパトロンで諸国を往来して居る金持商人の支離遜だった。
支離遜は蜘蛛《くも》のように土坡へ匍い上り荘子と並んで腰を下すと言葉をほとばしらせた。
「今お宅へ伺いましたらこちらにお居でだと伺って直ぐ参りました。久し振りですな、先生なにからお話して宜《よ》いやら、それよりか先生、何故あなたはお勤めも学問の方もおよしになってこちらへ御隠退なさいましたか、お知らせも下さらないで」
荘子は久し振りで支離遜に逢って嬉しくもあったが直ぐそれを聞かれるのはすこしうるさかった。で、彼はごく手短かに引退の理由を話した。
この頃、孔子老子の二聖は歿して、約一世紀半ほどの距てはあるがいわゆる「学」と称《とな》えられるものは後嗣の学徒によって体系を整えて来はじめ、それと伍して幾つもの学派が並び起った。
孔子の倫理的理想主義を承《う》けて孟子は人間性善説を提掲した。これに対して荀子は人間性悪説を執《と》り法治論社の一派を形造った。墨子の流れを汲む世界的愛他主義が流行《はや
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