生活に渇仰をもっていて、店の監督の暇には油画を描いていた。寝泊りする自分の室は画室のようにしていた。彼は客の誰彼を掴《つかま》えてはニューヨークの文士村《グリンウィッチビレージ》の話をした。巴里《パリ》の芸術街を真似《まね》ようとするこの街はアメリカ人気質と、憧憬による誇張によって異様で刺激的なものがあった。主人はそれを語るのに使徒のような情熱をもってした。店の施設にもできるだけ応用した。酒神《バッカス》の祭の夕。青蝋燭《あおろうそく》の部屋、新しいものに牽《ひ》かれる青年や、若い芸術家がこの店に集ったことは見易き道理である。この古都には若い人々の肺には重苦しくて寂寥《せきりょう》だけの空気があった。これを撥《は》ね除《の》け攪《か》き壊すには極端な反撥《はんぱつ》が要った。それ故、一般に東京のモダンより、上方のモダンの方が調子外れで薬が強いとされていた。
 鼈四郎はこの店に入浸るようになった。お互いに基礎知識を欠く弱味を見透すが故に、お互いに吐き合う気焔《きえん》も圧迫感を伴わなかった。飄々《ひょうひょう》とカン[#「カン」に傍点]のまま雲に上り空に架することができた。立会いに相手を
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