渡って行く。その一浮きは同時にうたた寝の夢の中にも通い、濡《ぬ》れ色の白鳥となって翼に乗せて過ぎる。はつ夏の哀愁。「与四郎さん、こんなとこで寝てなはる。用事あるんやわ、もう起きていなあ、」鼻の尖《さき》を摘まれる。美しい年増夫人のやわらかくしなやかな指。
 鼈四郎はだんだん家へ帰らなくなった。貧寒な拓本職人の家で、女餓鬼《めがき》の官女のような母を相手にみじめな暮しをするより、若い女のいる派手で賑《にぎや》かな会席を渡り歩るいてる方がその日その日を面白く糊塗《こと》できて気持よかった。何か一筋、心のしん[#「しん」に傍点]になる確《しっか》りした考え。何か一業、人に優れて身の立つような職能を捉《とら》えないでは生きて行くに危いという不安は、殊にあの心の底に伏っている焦々《いらいら》した怒ろしい想いに煽《あお》られると、居ても立ってもいられない悩みの焔《ほのお》となって彼を焼くのであるが、その焦熱を感ずれば感ずるほど、彼はそれをまわりで擦《こす》って掻《か》き落すよう、いよいよ雑多と変化の世界へ紛れ込んで行くのであった。彼はこの間に持って生れた器用さから、趣味の技芸なら大概のものを田舎初
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