体に非現実な美しい不安が起る。「このとき、僕は、人並の気持になれるらしい。妻も子も可愛《かわい》がれる――」彼はこんなことを逸子によくいう。逸子は寝かしついた子供に布団を重ねて掛けてやりながら、「すると、そのとき以外は、良人に蛍雪が綽名《あだな》に付けたその鼈《すっぽん》のような動物の気持でいるのかしらん」と疑う。
鼈四郎は、煙草を喫いながら、彼のいう人並の気持になって、霰の庭を味っていた。時刻は夜に入り闇《やみ》の深まりも増したかに感ぜられる。庭の構いの板塀は見えないで、無限に地平に抜けている目途の闇が感じられる。小さな築山と木枝の茂みや、池と庭草は、電灯の光は受けても薄板金で張ったり、針金で輪廓《りんかく》を取ったりした小さなセットにしか見えない。呑《の》むことだけして吐くことを知らない闇《やみ》。もし人間が、こんな怖《おそ》ろしい暗くて鈍感な無限の消化力のようなものに捉《とら》えられたとしたならどうだろう。泣いても喚《わめ》き叫んでも、追付かない、そして身体は毛氈苔《もうせんごけ》に粘られた小虫のように、徐々に溶かされて行く、溶かされるのを知りつつ、何と術もなく、じーじー鳴きな
前へ
次へ
全86ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング