《あぐら》を掻《か》くと、ビール罎に手をかけ、にこにこしながら壁越しに向っていった。
「おい、頼むから今夜は子供を泣かしなさんな」
 彼は、ビールの最初のコップに口をつけこくこくこくと飲み干した。掌で唇の泡を拭《ぬぐ》い払うと、さも甘そうにうえーと※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気《おくび》を吐いた。その誇張した味い方は落語家の所作を真似《まね》をして遊んでいるようにも妻の逸子には壁越しに取れた。
 彼は次に、焜炉にかけた陶器鍋の蓋《ふた》に手をかけ、やあっと掛声してその蓋を高く擡《もた》げた。大根の茹《ゆだ》った匂《にお》いが、汁の煮出しの匂いと共に湯気を上げた。
「細工はりゅうりゅう、手並をごろうじろ」
 と彼は抑揚をつけていったが、蓋の熱さに堪えなかったものと見え、ち、ちちちといって、蓋を急ぎ下に置いた様子も、逸子には壁越しに察せられた。
 じかに置いたらしい蓋の雫《しずく》で、畳が損ぜられやしないか? ひやりとした懸念を押しのけて、逸子におかしさがこみ上げた。彼女はくすりと笑った。世間からは傲慢《ごうまん》一方の人間に、また自分たち家族に対しては暴君《タイラント》の良
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